春の陽に。

ウイスタ4×5VXに6×9のバックホルダーを取り付けた一枚。レンズはスーパーアンギュロンの90mm。1985年ごろになるかと思うが、段々と鉄道写真から離れ4×5やブローニによる風景写真に傾倒していったのは・・・。

その頃勤めていたスタジオの先生の暗箱を借りて初めて4×5を屋外に持ち出した。その後すぐに自分のカメラが欲しくなりテクニカルタイプの4×5一式を買いそろえた。レンズは先生曰く持っていないレンズを買えとのことでフジノンSWD75mm、ジンマー150mm、フジノンT400mmとし他にカットホルダー、6×9バックホルダー、広角用袋蛇腹、ルーペ、乾布、水準器、プロンターのレリーズと当時の月給の数倍を覚悟して購入した。実際の撮影では先生が持っていた90、120、180、210、270mmのレンズを拝借して北海道を始めとしてお気に入りの場所へ撮影に出かけた。さらにはその後8×10にまで手を出すのだから、フィルム代現像代撮影費用と年中火の車だった。

この拙いブログでは風景写真を扱うことがあまり有りません。何故なら4×5のフィルムをスキャンするの不精しているわけでたまに6×9ホルダーのブローニがぽろっと出てきたときにスキャンする程度な訳です。

因みにこの写真ライズとティルトをしています。つまらない写真ですがそういったアオリを利かせて撮るのが楽しかった頃の駄作です。

今度4×5を見返してみますか・・・。

1985年5月   水上町谷川地内。

ロクイチに逢いに。

ブローニのスキャンをしていたらこんなの出てきました。

仲間内での撮影行だったようで撮影後の駅前での集合写真から懐かしい面々が想い出されます。S水と兄貴や渋川の先生も・・・。

当時のお召し列車は鉄にとって特別なものでイベント事としては最上級なものだったように思います。どうやって会社や学校を休むかは人それぞれで親類縁者の忌引きで休む人や病気等々色々だったと思います。事前に申請する人もいれば自分のように当日朝になって会社に電話するほうが良い場合もありいずれにせよみんな眼を輝かせて撮影地に向かったものでした。

お召しが走ると景色が開ける・・・足回りの草が無くなる・・・。今では考えられない時代でした。警備の警官が居てある意味監視されている状態ながら常識の範囲内なら今のように大騒ぎになるような事もなく穏やかに撮影できたのはあの時代だったからということだけではないような気がします。

因みにこれC220での撮影。

1982年5月   東北本線。

津久田駅で。

上越線水上方の撮影地と言えば言わずと知れた此処津久田界隈。随分とお世話になりました。

今は蒸気機関車が走ることで俯瞰撮影で有名なようだが当時から東京圏からのアクセスも良くファンには良く知られ棚下に代表される赤城山と利根川の織り成す自然環境は数々の撮影地を提供してくれた。

そんな徒歩鉄にとっての起点となるのが此処津久田駅。その頃上越線の水上方の無人駅と言えば津久田だけだったように記憶している小さな駅だった。

あまり天気が良くなかった日であろうホームに115系各駅停車が滑り込んだ。

これは一番最初に津久田に来た中学2年の時の写真。新潟ローカル70系が高崎まで来ていた頃のもの。この利根川に架かる鉄橋を銀箱と三脚担いで渡ったのだがとにかく怖かったことを覚えている。

1979年2月

1976年9月   上越線。

通学時の一枚。

熊谷駅の西方には歩行者用の小さな跨線橋があった。傍には自動車等の踏切もあったのだが当時は踏切警手による手動で開閉が行われていたことと記憶している。

これは2321ㇾが熊谷に着いて、その跨線橋に寄って撮影したもののようだ。たぶん新雪だかの写真を撮るついでに撮影したのでは・・。

これから自転車預り所に戻りチャリンコ漕いで学校まで行くのだがたぶん今日も遅刻だな・・。楽しい通学のひと時・・・。

1979年2月   高崎線。

春の川辺の記憶。

キラキラと輝く魚野川と岸辺の残雪。181が上野へ向かって駆けてゆく。

なんて素敵な朝だろう。

この日も後輩のS水と前の晩の石打からずうっと一緒・・。

先日飲んだ時話題になったけど・・自分はキャノンAE-1とフジカST801、S水はニコンFMとペンタックスSPF。高校1年と中学2年にしては生意気な機材だったよ。お互いもうすぐ学年が上がる春休み天気も良くていい日だったねぇ。

世の中落ち着いたらまた行こうね。

1979年3月   上越線。

新雪なんだけど・・。

新雪の後追いカット。この先頭車両どう見ても車両側面の切り抜き形式が無いように見えるんですけど・・。

わかりません、そんなことってあるんでしょうか。JR後のJNRマークや特急マークが無いんだったらわかるけどね

1979年2月   上越線。

岩原の115系と165系。

当時のルーティンはまずは岩原駅から歩いて線路をくぐり冬季閉鎖された踏切脇から115系の場所、午後になると新日本スキー場の跨線橋を渡り民宿街から線路際のアウトカーブ定番が一日の流れ。

あの頃の天気確認は177に電話して長岡気象台発表の音声のみ。今だったらスマホで各気象サイトの詳しい天気が確認できるけど当時はそれが限界。考えてみると長岡と湯沢じゃ天気違うもんね・・。言ってみれば行き当たりばったり出たとこ勝負ってゆう感じだったなぁ。撮影に行きたくてうずうずしてるわけだから本当は天気は二の次だったもんなぁ。

銀箱担いで三脚持ってよく歩いたなぁ。定番だけど今も変わらない大カーブ・・。

1979年1月   上越線。

もう少しだけ石打の夜に・・・。

沢山の列車たちをこの夜も見送った。

来る列車は終着駅ではない限り当たり前だがずうっと其処にはいないわけで、もちろん終着駅と言えども次の列車が来る前に折り返したり車両基地に行ったりするわけだが・・。

石打は上州と越後の脊梁を結ぶ片方の基地であるからその峠道を往ったり来たりしている機関車たちが列車の先頭に立つ。もちろん彼らは本当の意味での終着駅を知ることは無い。

言い方を変えると土着の機関車たち・・・。

勾配用に作られた彼らだから当たり前と言えば当たり前だが、彼らの仕事場はいつも峠道だった。

ある時その機関車に乗せてもらった、石打から水上そして石打へと。つまり一往復峠道の先頭に立ったのだ。機関助手よろしく砂撒きやホイッスルを鳴らしたことは忘れない。縦揺れ横揺れガタゴトガタゴト、カモシカ君やウサギさんにごあいさつ。機関士は同僚たる機関車に語り掛けノッチを握り、トンネル抜けて鉄橋をゴウゴウ渡りホイッスルでもう一台の機関と合図を交わす峠道。

そう土着の機関車を相棒にして昼も夜もガタゴトガタゴト、ゴウゴウ、ガタゴト・・・。

そして今日の夜にこだまするホイッスル・・・。まぶたの裏側の景色に・・・。

1979年3月   上越線。