新潟に行くのには上越線がメインルートのあの頃。
それより前の時代は関東と日本海側とを結ぶ大動脈であった信越本線。その昔碓氷峠までの松井田などにもスイッチバックがあったようだが、同じように長野から直江津までにたくさんのスイッチバックの駅があったとその頃知った。
ゴハチではなくロクニが行き来する場所だった。
今でも二本木駅にスイッチバックが残っている。勾配の続く場所・・。
あれっ、隣の115のヘッドライトはどうしたんだろう・・・。
1979年8月 信越本線。
新潟に行くのには上越線がメインルートのあの頃。
それより前の時代は関東と日本海側とを結ぶ大動脈であった信越本線。その昔碓氷峠までの松井田などにもスイッチバックがあったようだが、同じように長野から直江津までにたくさんのスイッチバックの駅があったとその頃知った。
ゴハチではなくロクニが行き来する場所だった。
今でも二本木駅にスイッチバックが残っている。勾配の続く場所・・。
あれっ、隣の115のヘッドライトはどうしたんだろう・・・。
1979年8月 信越本線。
EF12を覚えているだろうか。
ゴナナと同時代に作られた貨物機だ。
吾妻線や両毛線で活躍した高崎第二機関区のカマ。
末期には貨物だけではなく団臨等で随分と撮影させてもらった。
今では八ッ場ダム建設の為に線路付け替えとなってしまった区間での撮影。
1979年8月 吾妻線。
当時の上越線の定番構図。
今この構図では撮ることができない。
そんなところが多いのは当たり前。時代が過ぎれば・・・。
1979年8月 上越線。
岩原と言えば中里寄りのオメガカーブが今でも有名かと。
湯沢寄りの此処も良かったなぁ。
左の下り線のバラストがやけに赤いのは下り勾配のブレーキの跡かな。
信号機も雪国仕様なのも懐かしい。
1979年7月 上越線。
久しぶりに石打の夜。
この頃は駅前はもちろん補機の付け替えで一晩中明るい駅だった。
雨の夜だけど傘をさしてバルブしていたのだろう。日付を見ると9月、高校の文化祭代休を絡めて撮影に来たようだ。
1979年9月 上越線。
さぼりにさぼった更新です。遅まきながら今年もよろしくお願いします。
ってなわけで、今年も岩原からです。
今年は寒波襲来でここいらも雪が多いと思います。行ってみたいなぁと思うのですが列車本数は当時と比べてこれでもかと思うほど少ないし、ちょっと雪が降ると列車は止まってしまうし・・・。時世ですね。
1979年1月 上越線。
夏休みの朝早く家を出てバイクで熊谷まで。涼しい時間に飛ばすバイクの気持ちいいこと。
此処は17号線と高崎線の間の築堤。今は丁度新幹線が上を跨いでいる辺り。この辺も住宅が出来て様変わりしたなぁ。
1979年7月 秩父鉄道。
この時はまず大宮を発ち小出へ、只見線へ乗り換え会津大塩駅で野宿。次の日は会津若松、喜多方そして此処熱塩だったように記憶する。列車に揺られながら小さなメモに次に来た時のための撮影場所などを記録していたのだが今となってはそのメモは何処へ行ったのか・・。それでも特徴のある山のかたちや鉄橋、切り通しなどはその後の旅や撮影の折記憶の片隅から引っ張り出すとまるでカンニングペーパーを作っているうちに妙に記憶されて覚えてしまっているかの如くメモは要らなかったりもした。
熱塩駅は何年か前に旅の途中に寄ったことがある。蒸気機関車当時の写真や駅名標などが展示され、構内にはラッセルや茶色の客車が・・・。
あぁあそこから撮ったんだよなぁ・・。
そうそうホームはこんなだったっけ・・。
小さな駅は人の声もしないしディーゼルの匂いも何にも無い・・。
そうだ、今、夕暮れの駅から喜多方へ向かう車内のニスの匂いを想い出した・・・。
1980年7月 日中線。
1974年の無煙化により蒸気機関車からディーゼル機関車。
貨物と客車の混合編成を見たのはこれが最後だったように記憶する。機回しをするディーゼル。長閑な山の麓の駅だった。
それでもこの後1984年まで線路は残ったのだったがこの一回限りの訪問だった。
1980年7月 日中線。
かつての秩父の姿を語るうえで養蚕は外せない。
小正月の繭玉に込めた思いをしてもどれだけ蚕を大切にしていたかわかる。その蚕の食べる桑の葉ももちろん大切にしてきた。
今は随分とその桑畑も減ってしまった。産業の移り変わりと言えばそれまでだが・・・。
聖なるお山武甲山は自らの体を削り秩父の民に生きる糧をあたえて今に至る。そして削られた体の一つ一つを小さな機関車は都市へと運んでいる。
たぶんこれからもずぅっと・・・。
1979年1月 秩父鉄道。