色々とマナーの問題も出ているようで・・。
基本的に人が集まる所は苦手なもので。
興醒めしてこの一枚撮ったらすぐに帰りました。
2020年5月29日 只見線。
色々とマナーの問題も出ているようで・・。
基本的に人が集まる所は苦手なもので。
興醒めしてこの一枚撮ったらすぐに帰りました。
2020年5月29日 只見線。
熊ノ平へは18号線から旧線突っ込み線のトンネルを抜けると行くことが出来た。この頃は自由に車で出入りが出来たのだった。着いた熊ノ平の駅跡は旧線のホームが残っており白い大きな変電設備だろうか無人の建物と奥には殉難の碑と母子像。昭和25年の山津波の慰霊碑だと知った。
丁度その頃碓井線の紹介本を手に入れたが隧道番と呼ばれる人々がいたことも知った。名物力持ちの売り子がいた長閑な昔日のアプト式の時代に想いを馳せると同時にこのトンネルとトンネルのあいだの短い駅の使命を感じることとなった。
今は強力な機関車が2台、そうしなければ上り下りできない難所であることに変わりがなかった。
1979年4月 信越本線。
4月になり高校2年のスタートです。でもまだ春休みです。
初めての横軽です。今だったら此の撮影場所は駄目でしょうけど当時は手を上げて挨拶すると機関士や運転士が合図してくれたものでした。169を押し上げるロクサン。やたらブロアーとモーター音がでかいそれが第一印象でした。そんな碓氷峠ですが1997年に廃止となって23年・・もうそんなに経つんですね・・・。
1979年4月 信越本線。
発車を告げる警戒音が鳴り響く。
撮影していたカメラを振ると駆け足でS字の勾配を登ってゆく光跡。
今でも耳を澄ませばあの音が聞こえる。
1979年3月 上越線。
リゾートマンションが乱立する前の飯士山麓。
いわっぱらスキー場のなだらかな斜面はなんて素敵なんだろう。春の日差しはシーズンの終わりを告げているけど心躍る季節の到来なんだからしょうがない。
ピィーピッピッ・・ピィーピッピッ・・合図を交わして2台の機関車は山を下りてくる。
1979年3月 上越線。
たぶん絵入りヘッドマークになる前の最後の撮影の「とき」。
何度か書いているけどやっぱりヘッドマークは文字だけのほうが断然カッコイイ!。
なんであんなになっちゃったんだか・・・。
1979年2月 上越線。
この日は水上から撮影をしながら湯檜曽まで歩いたんだっけ。そこそこの距離があり湯檜曽に着く頃は銀箱が少し重たいと思ったよ。ねぇS水!。この日も君と一緒だったね。今では考えられないがこの辺は線路脇の犬走を歩いたんだよね。今じゃ捕まるよ・・。
あの頃の湯檜曽駅はシーズンになると民間委託の駅員がいたように記憶している。上越線複線時に大きなコンクリートの駅になったが10年ぐらい前に改築されてやたらトイレが綺麗なこじんまりとした駅になった。
あの頃よく野宿した下の大きな待合室は下り線の列車が入るとすごい風が吹き抜けるそんな駅だった。
1979年3月 上越線。
ご存じ大正橋。赤城山をバックに轟音を響かせゴハチが牽く列車がやってきた。当時、昼間の上越線スキー多客臨のホープと言えば8702ㇾだった。何度被写体としてお世話になったことか。
ブルーの客車にゴハチは良く似合うよ。
満員のスキー客を乗せて上野まではもう少し・・。
1979年2月 上越線。
35mmポジのアーカイブに戻ってまいりました。
なんだか4×5やブローニを見た後だと画質の違いを感じます。この頃はまだ35mmポジとモノクロ2丁切りの時代なので当たり前なのですが・・。
それはさておき、やっぱり大好きな上越線。天気がいいと気持ちいい!松川鉄橋を12連が駆けてゆく。
1979年3月 上越線。
ガサゴソしたら出てきました!撮ってました丸瀬布・・。
4×5での撮影です。レンズはたぶんジンマーの120mmだったような・・。
原版ノートリです。もちろん置きピンは当たり前・・シャッター閉めてホルダー入れたら‥画面見えないですから・・・。因みにフィルムはフジの50D。
確か前の日の夕方丸瀬布に入り野宿したような・・。34年もたつと色々記憶が曖昧なのはしょうがありません。
1986年8月 丸瀬布。