都電花電車。

出てきました。何を隠そう35mmリバーサルフィルムの一本目。

撮影に行ったこととポジの一番最初は都電だったことはさすがに覚えていたのですが・・。飛鳥山は花電車を見ようとすごい人出だったんですね。沿道の子供たちの服装が懐かしい。あと上の写真の白バイの機種は何だろうマフラーの形状がなんとも古めかしい。今度バイクに詳しい友人に聞いてみよう。

1978年4月   都電荒川線。

山登りの前に。

このときは電車で高崎を経由して横軽を超えて小諸から小海線へ。夜に清里で合流する友人が来るまでの時間ウロウロとしていたようだ。この後、野辺山で汽車を降りて徒歩で平沢峠から飯盛山に登りそして清里のユースホステルへと向かった。彼とは翌日八ヶ岳への登山を考えていたが急遽金峰山への計画に変更して翌朝に清里~小淵沢~韮崎と汽車を乗り継ぎバスで瑞牆山荘まで入り山に向かったのだった。

35mmのポジを見ると前半のいっときだけ鉄っちゃん、後半は山の写真ばっかりだった。ニッカボッカにザック担いで鉄なんて変わっているよね・・。

先週久しぶりに小海線に撮影に行ったのだけれども ナントカは高いところへの格言ではないがこの頃からこんな感じの写真が好きだった見たい。

やってること変わんねぇなぁ・・・。

今まで35mmのモノクロとブローニーのポジは一部スキャンしてきたのだけれど、35mmのポジは手付かずだったのでこれからたまにアップしてみようかと考えております。不精なものでいつまで続くやら・・・。

1983年12月   小海線。

帳降りる頃。

帳降りる頃、星々が輝きだした。暫くすると甲斐駒の稜線に雲が湧いてきた。

やがて空一面に雲がせり出しあっという間に星々の輝きは奪われてしまった。

誰もいない田んぼの傍らで3時間、結局、空はこれきり晴れなかった。

10時過ぎに撮影が終わると野宿場所へ移動。一献始めると目の前の木に動く影、目を凝らすと正体はムササビのようだ。しばらく眺めていると飛んだ~。三十数年前に北海道で見た以来。その時は同じ日にヒグマの足跡やフンを見たんだっけ。今日はツキノワグマ出ないでくれよと願いテントにもぐりこんだ。

2020年3月12日   小海線。

千曲川の故郷。

島崎藤村の「千曲川のスケッチ」に描かれる川上八か村。

明治時代半ばまで川上村は梓山、秋山、大深山、御所平などの八つの村に分けられていたそうだ。眼下の集落は峠を一つ越した地に当たるがその当時は長野県下でも一、二を争う辺境の地であったことに変わりはない。

藤村は「千曲川の上流に当たって川上の八か村というのがある。その辺は信州の中で最も不便な、白米は唯病人に頂かせるほどの貧しい荒れた山奥の一つである」と書いている。

写真に見えるように家々の周りには畑と水田。川に寄り添うように集落形成されている。此処は野辺山や清里などとは違い戦前戦後の開拓地ではなく佐久甲州街道の道筋に当たる地である。

新道(国道141号)からはずれ時間が止まったかのような山間集落。どこか地元秩父の山懐の風景に似ているからか懐かしさを覚える地である。

2020年3月12日   小海線。

甲斐駒バックに山を駆け下りる。

38年前に撮影来た時の記憶ではもう少し撮りやすかったような。

他の場所でも木々の成長で見通せないところが多々。当たり前のことだが月日を感じる場所がこの区間では特に感じられた。とっておきの俯瞰はものの見事に山と化していたし。

2020年3月12日   小海線。