当時DD51の牽く高尾臨は人気があった。
雑木林の伐採で立てたこの場所、今は鬱蒼とした森になっている。
性懲りもなくここいらへん未だにウロウロしている。
1983年1月 八高線 竹沢~折原。
マミヤC220がこのころの主力でした。
レンズは65mm・80mm.・105mm.・180mm.と持っていたがこの写真は105mm.だったと思う。
2眼レフにしてはレンズ交換が出来る楽しいカメラだった。
しかし、下の写真のような環境では、ウエストレベルのファインダーに雪が入りルーペを出すのも
一苦労な状況でした。
電池をまったく使わないカメラなので多少濡れようが全然平気なのが唯一の救いでしょうか。
今、湯沢からインターを出て17号を左折して上越線を跨ぎ坂を下りてゆくとセブンがあり
さらにそこを左折すると上越線を跨ぐ跨線橋がありますが、昔はそこは踏切でした。
踏切から線路伝いに歩いてゆくと此処へたどり着きますが、夏なら5分のところも
雪の季節には新雪のラッセルなら40分もかかったものです。
現に、この「いなほ」の写真の時は、腰まで埋まる雪で難儀したのを覚えています。
それにしても信号機が雪国仕様というのがよくわかる写真です。
1980年9月
1980年12月 上越線 岩原スキー場前~越後湯沢。
風が吹く。
心地よい風が青稲の海にさざ波を起こす。
タイフォンを鳴らし一両きりのディーゼルカーは軽やかなジョイント音を奏で、
滑るように流れてゆく。
かつて、熊谷から小泉まで中島飛行機等の物資運搬用に計画され、利根川に橋脚の足場を残し
終戦を迎え、結局妻沼までの盲腸線になってしまった。
その後、何度かまことしやかに線路復活の話題が地元新聞に載ったが実現することなく今に至る。
熊谷駅で秩父線のホームに居候して片道10キロちょっとの行ったり来たり。
妻沼では利根川の土手に阻まれ・・・。
それでもディーゼルエンジンの匂いが小さい旅の旅情をそそる。
そういえば、当時妻沼から通う高校の友達から聞いた話。
大水のあと何かのはずみで突然利根川に大きな水柱が上がることがあるって。
戦時中の米軍の不発弾が今でもあって、そんなタイミングで爆発することがあるそうな。
南海の青い海青い空、艦砲射撃の残り煙の黑やグレーが残像になる。
あんな綺麗なところで戦争したんだ。
後から来たものは解釈が先に立つからね。
平和な青稲の海でいなけりゃ。
1981年8月 東武妻沼線 大幡~妻沼。