1980年からブローニライブラリのポジをスキャンしていたのになぜか八高線と秩父鉄道が無い。
思い出した、八高線と秩父鉄道だけ別に仕分けしていたんだっけ。
今回のDD51の訓練運転と見比べてみよう。
まずは定番インカーブ。手前の道路もダートだし裏の道もできていないころ。
この日は誰もいなかった。
1981年1月 八高線 竹沢~折原。
河岸段丘の続く伊那谷を行く線路は、まるで釧路湿原を流れる釧路川のように右へ左へと蛇行を繰り返す。
かつて幕末の探検家松浦武四郎は釧路から弟子屈、屈斜路湖へ至る川船の中で、
「今さっき右手に見えた山が今度は左へと」
「前に見えていた葦原は今度は後ろへと」
・・・方向感覚が定まらないと感想を述べている。
伊那、駒ケ根を行き伊那福岡を出た電車はまさに田切地形が続く河岸段丘の上り下りに徹する。
トンネルを掘ったり長大橋梁架橋を避け、最小半径と勾配で進む飯田線。
次のカーブを曲がったらどんな景色が現れるのだろう。
ワクワクの連続が車窓に映し出される。
夕陽がまぶしくても鎧戸を下げずに楽しもう。
そう、中央アルプスが綺麗だ。
1981年11月 飯田線 伊那本郷~七久保。
この年の夏に訪れて以来最晩年までの短い期間、5月の連休、夏休み、11月の勤労感謝の日前後と
通うことになった飯田線。
特に11月は有給と絡めできうる限り撮影に向かった。
この時だったか風邪をひいて薬を飲んでありったけの服という服を着こんで車の中で汗をかいて
無理くり翌朝までに風邪を治したのは。
当時から車中泊かテント泊だったもんなぁ。
飯田線撮影で唯一宿泊所に泊まったのは五月の連休の時駒ケ根のユースホステル一泊だけだったっけ。
何で泊まったのかは思い出せないけど、同宿に鉄ちゃんが一人おり翌日此処へ来たのだけは覚えている。
此処お気に入りだったもんなぁ。
1981年11月 飯田線 七久保~高遠原。