通学列車から。

ゴハチの牽く2321ㇾの右車窓。鴻巣から吹上の今で言う北鴻巣駅の手前、丁度駅前の区画整理や造成が始まったころで武蔵水路に架かる新しい橋が右に見える。

遠くには今と変わらず赤城連山が見える、皇海山から男体山にかけての稜線は冬型が強く雪雲が流れてきているのも分かる。

通学や通勤は大概同じ車両の同じ座席や扉だったりすることが多いと思うが2321ㇾの自分の位置は最後尾の車両がほとんどだったように記憶する。武甲山や秩父連山を眺めるのだったら進行方向左側になるのでこの逆の車窓が多かったように思うのだが鴻巣を過ぎると車輌が空くことが多く座席の往ったり来たりもしていたのだろう。

1978年12月   高崎線。

「通学列車から。」への4件のフィードバック

  1. 大変懐かしく拝見致しました。78年当時、私は小学校高学年で、毎朝、吹上-行田間の踏切でこの列車を見送ったものです。周りの仲間は『全く遅いボロ』などと酷い物言いでしたが、私は密かに毎朝の楽しみでした。運用の都合なのか、一日置きに最後尾のマニの色が青→茶に替わっていたと思います。

  2. 塩田様。

    コメントありがとうござてます。
    実は乗っている同級生もボロ電などと呼んでいました・・。吹上~行田ですか、今では鉄ちゃんはフキギョウなどと呼んでいますが当時ただ単に吹上のカーブと自分たちは呼んでいました。吹上を出るといくつか小さな踏切がありますがそのどちらかを渡り通学されていたのですね。宮原を出ると上尾、桶川と特急や急行の退避がありとにかく定時で熊谷に着くことが無い鈍行でした。確か最後尾には荷物車が付いていましたね、青と茶色ですか、そういわれれば客車のほうは青が多かったイメージがありますが・・そうだったのですね。

    拙いブログですがまたコメントいただければ幸いです。

    1. 北鴻巣駅が出来るまで、鴻巣-吹上は駅間が長く、夜間は真っ暗で恐怖を覚えるくらいでしたよね。(笑)私が通学途中に渡っていたのは『榎戸踏切(恐らくそんな名前)』です。吹上発車からゴハチが力行してくるのですが、中々目の前に現れず、前述の仲間の発言になった訳です。客車は青い塗色しか見た事がありませんが、マニは36と37が日替わりだったのだと思います。お写真を拝見し、鮮やかに記憶が蘇りました。ありがとうございます。今後もよろしくお願いします。

  3. 吹上のカーブの1つ吹上寄りの踏切でしたか。吹上と言えば当時の駅脇のC58が思い出されます。

    2321レの写真をまた今度探してみますね。

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