その後訪れるゴハチブーム。
人が集まりだすと興醒めしてしまうわけで・・・。
まぁこの頃の団臨がギリギリだったのかもね。
茶色く塗られる前の89番が普通だったころ。
1979年4月 東北本線。
その後訪れるゴハチブーム。
人が集まりだすと興醒めしてしまうわけで・・・。
まぁこの頃の団臨がギリギリだったのかもね。
茶色く塗られる前の89番が普通だったころ。
1979年4月 東北本線。
上越線の撮影地の中でも渋川の鉄橋は今でも有名撮影地なのだが上の写真の構図はこの時を入れてもほんの数枚。下の沼田の鉄橋に至ってはこの時だけだったようだ。
そうかと思えば通い詰めるところもあったりで・・。
1979年2月
1979年4月 いづれも上越線。
今では面影すらなくなってしまった撮影地。
あの頃、上りの夜行列車を撮るならば此処だったなぁ。
35番が来るとなんか得をした気分。
1979年6月 高崎線。
その年の暮れ会社を辞めた。
何処へ行こう風が吹く・・・山頭火の詩ではないけれど目指したのは北の大地。
二十歳の冬だった。
斜里のユースで逢った君は自分と同じ独り旅。
帰りのキハの座席で君が持ってきたウォークマン・・。片耳ずつひとつのイヤホンを並んで聞いたあのメロディは今も忘れない。
どうしているのか・・生きていてくれ・・・。
突然亡くなってしまった身近な人を最近感じた自分が今まさに生きていることが当たり前ではないことを想うと自分自身なんだか不思議な感じもしたりして・・。
この歳になれば年上は当たり前、自分の年齢も含めて後の時間はたかが知れているかもしれない・・。
だから間違っても自分より若い死は切ない・・・。
さっきテレビを見ている女房と娘の横顔をちらっと見た。笑っているふたり・・・。
いつまでも元気でいてくれと願った。
まったく勝手な馬鹿親父である自分。今独りキーボードを叩いている。
その昔、あの北の大地の駅で見送ったキハが遠ざかり・遠ざかり・・遠ざかり・・・。
「あ~あ~夜よ泣かないで・・・」
1983年12月 北海道。
前日の夜に宇都宮駅に入り下り夜行を撮影した後、いよいよ本番の上り夜行列車たちの撮影。眠い目をこすりながら新星から始まる夜行列車群。津軽を始めしんがりは「あけぼの」。
次々と上る列車たちの先頭はゴナナ無き後のゴハチと65。楽しかったなぁ・・・。
1979年5月 東北本線。
魚沼線での撮影。
新幹線開業前の上越線撮影の折に寄り道した唯一の訪問。
来迎寺から西小千谷への短い路線でした。
今で言う関越自動車道の小千谷を過ぎて丁度越後製菓のあたりだったかな。
1982年10月 魚沼線。
軽井沢から降りてきて横川駅で今日最後の撮影。
上の写真は雑客の各駅停車。高崎から2326ㇾになる列車のようだ。菱形パンタ6つは何ともカッコイイ。下の写真は貨物を押し上げるロクサン、先頭にはロクニ。そして機回しするロクサン。
初めて横軽を訪れた訳だが開けた場所での撮影が叶わない線区なんだなぁと思った。当たり前だが最短距離で66.7‰を行き来するのだから一切の無駄を省いたその線形はトンネルと鉄橋の連続で本当に厳しいところだと実感した。
1979年4月 信越本線。
初めての軽井沢はそれまでに行ったどこでもなかった。それが第一印象。
旧18号で峠を越すといきなり広がる景色、普通は峠を越すとそこからまた長い下り坂があるものと思っていた。しかし軽井沢は違っていた。いきなりまさに高原という言葉がぴったりの雄大な景色が待っていた。
もちろん外国などには行ったこともない自分だが日本離れした景色というのはこうゆうものかとひどく感心したのを覚えている。
アプト遺構の変電所も残っていてそこへロクサンに牽かれる電車。なるほど急勾配がもたらす意味が少しわかったような気がした。
昨日女房とアウトレットに行ったのだが帰りしなにこの撮影地を見てきた。手前には新幹線の重厚なコンクリート、目を凝らすと奥には旧線の路盤と架線が見えた。しかし矢ケ崎の変電所は跡形もなく更地になっていた。アプト遺構の丸山変電所は鉄道遺産として再建されたがこちらはものの見事に無くなってしまうとは。新幹線建設おそるべし。
昨日はそれから北軽井沢に行き浅間牧場でアイスクリーム食べて草軽の痕跡を眺めつつ浅間大滝へそして二度上峠から倉渕、高崎を経由して藤岡から関越に乗って帰ってきました。
軽井沢の空気をまた吸いに行きたいなぁ。
1979年4月 信越本線。
横軽は熊ノ平の続きです。
トンネルの中からモーター音と共に列車が飛び出してくる。ロクサンの力強いモーター音と共に・・。今は旧線が遊歩道となり横川から此処熊ノ平まで来れるそうだ。18号線からも階段を上ると来られるみたい。しかし突っ込みトンネルが閉鎖されてからは一度も行っていない。
189も169も来ないもちろんロクサンも・・・。
1979年4月 信越本線。
熊ノ平へは18号線から旧線突っ込み線のトンネルを抜けると行くことが出来た。この頃は自由に車で出入りが出来たのだった。着いた熊ノ平の駅跡は旧線のホームが残っており白い大きな変電設備だろうか無人の建物と奥には殉難の碑と母子像。昭和25年の山津波の慰霊碑だと知った。
丁度その頃碓井線の紹介本を手に入れたが隧道番と呼ばれる人々がいたことも知った。名物力持ちの売り子がいた長閑な昔日のアプト式の時代に想いを馳せると同時にこのトンネルとトンネルのあいだの短い駅の使命を感じることとなった。
今は強力な機関車が2台、そうしなければ上り下りできない難所であることに変わりがなかった。
1979年4月 信越本線。