10系気動車を見たのは、数年前の高麗川のキハ17以来。
当時、いろんな所に行けばまだ見られたのかもしれないが、上越や吾妻といった電化区間が
主な撮影場所だったこともあり、気動車といえば川越線のキハ30系を見慣れていたので
バス窓は新鮮だった。
それにしても撮影場所が分からない。
1979年8月 東北線内(たぶん小牛田)
10系気動車を見たのは、数年前の高麗川のキハ17以来。
当時、いろんな所に行けばまだ見られたのかもしれないが、上越や吾妻といった電化区間が
主な撮影場所だったこともあり、気動車といえば川越線のキハ30系を見慣れていたので
バス窓は新鮮だった。
それにしても撮影場所が分からない。
1979年8月 東北線内(たぶん小牛田)
夏休みも終わろうとしていた8月、渋川の先生のお供で仙台に。
短い時間だったが仙石線や赤い電機の撮影をすることが出来た。
渋川の先生とはこの年の1月に大正橋のたもとでお会いして以来、大変と良くして頂き、
色々なところへ、毎度、先生の車に乗せていただき撮影へ行くようになっていた。
このときは、車両事故関係の技術的な証人と言う事で原告より依頼があり仙台に赴くので、
社会勉強という意味合いもあり、お誘いを頂いたというわけ。
出発の日は日中、吾妻線で撮影をし、夕方、大宮へ戻り、その晩の20系新星で仙台へ。
銀箱に三脚を持って法廷内に入るとき、撮影は出来ませんと、係員から注意を受け(もちろん
そんなつもりはありませんが)粛々と進む裁判に耳を傾けました。
裁判が終わり、依頼主の運転で蔵王のお釜を見に行ったのですが、覚えているのは
お釜の色と、ベンツの後部座席の乗り心地だけというなんとも贅沢な旅でした。
そして翌日、仙石線や東北線小牛田で撮影をして、583ひばりに乗って帰ってきたのでした。
思い出すと、後にも先にも、赤い電機を撮影したのはこの時だけだったなぁ。
あっそう、帰りの583の寝台設備が車両の動揺で、絶えずきしみ音がしていたのも覚えている。
1979年8月 東北線内(たぶん小牛田駅)
春の陽の中、冬鳥越には昭和が佇む。
乗ったことも無ければ、実は見たことも無い。
廃線跡には、名残の築堤。そして春の陽。
誰もいない汽車の中。
眼を閉じると、築堤の上を行く・・・。
窓を開けると、つり革を揺らしジョイントを刻む。
土の匂いが、鼻腔を通り抜け、春だったことを知らせてくれる。
2010年4月9日 冬鳥越。
夏の夜。
虫の声を聞きながらの石打。
半袖では少し寒い夜。
宇都宮のロクゴが貨物を牽いてきた。
機回しをしてやってきたのは12番。
連結を終え、峠へ向かうほんの少し前。
コンプレッサーの鼓動が出発のブザーと混ざり合う。
ロクゴが少し高い合図を16に送り返す。
さぁまもなく出発進行。
1979年7月 石打駅。
夏休み2回目の石打。
ネガの順番からして、上の写真を撮って、それから下の写真。
どう見てもデッキの上から撮っている。
記憶が曖昧だ。
いずれにせよ、よい時代だったことは確かだ。
他に撮影者がいたらこんな構図ありえないし。
1979年8月 石打駅。
心の中を覗くと。冬の景色が留まろうとしている。
もう、4月だよ。
内なる〝ケ〟を払拭するのは自分だ。
そう大丈夫。
やがて春の陽に包まれる。
2007年1月3日 石打地内。