大宮駅8番線に滑り込む旧161系のとき。
なんといってもボンネット。クリーム色に朱色じゃなければ特急じゃないでしょう。
右側には大宮機関区の車庫や川越線のキハ30系たち。左側に京浜東北の101系。
駅撮りし始めた頃。
1974年5月。
大宮駅8番線に滑り込む旧161系のとき。
なんといってもボンネット。クリーム色に朱色じゃなければ特急じゃないでしょう。
右側には大宮機関区の車庫や川越線のキハ30系たち。左側に京浜東北の101系。
駅撮りし始めた頃。
1974年5月。
日進から川越線に乗り高麗川へ。
SLがいなくなった広い構内をディーゼル機関車と気動車の撮影。
当時、4つ上の兄がすでに鉄道写真を始めており、連れられてきたっていう感じ。
形式や車両の区別がつくわけも無く、ただシャッターを押していた。
カメラはペトリ7だったなぁ。
きのう兄貴に電話したら、ちょうど北海道は常紋で撮影中・・・。
もう10分で列車が来るとの事、あっさり電話を切られてしまいました・・・。
考えてみると兄貴も40年近く「鉄」してるもんなぁ。
俺より行動力があるし,体力も。
このあいだも「国鉄時代」の2月号に記事と写真が載っていたっけ。
昨日のデータが1975年10月。
前後しますが、今後、1974年5月からの写真を順を追って紹介してゆきます。
1974年5月。
高麗川駅。
http://www.rail-magazine.jp/kokutetsu/new/index.html
国鉄時代 HP。
以前も、ちょっと昔の写真を紹介したことが幾つかありました。
不定期ですが年度を追って35mmモノクロ写真を順次紹介してゆきます。
断っておきますが、すでにある時期から鉄道写真からは一歩退いております。
理由は幾つかあるのですが、ひとつには、魅力ある車両がなくなってしまったこと。
そして撮影地等を取り巻く環境の変化です。
そうは言っても、やっぱり鉄道が好き。
釣りに行っても、山に行っても、途中に線路があればドキドキする。
原点は、「 鉄 」です。
大宮駅に侵入するDC時代の「つばさ」
75年10月。
碓氷の鉄道文化村にいるEF63。
今日は文化村がお休みなのに、駅そばを食べているとホイッスルの音。
あの頃を彷彿とさせ時間が戻ったかのよう。
引込み線に行ってみてびっくり。複数の機関車が動いている。
機関士に聞いてみると、今日は機関車の入れ替えと簡単な整備との事。
「いいときに来たね」
「いゃーまったく!」
「いっぱい写真撮っていって」
で、この写真。
隣の63もパンタが上がっているし。
連結の時の掛け声は、まさにあの頃のまま。
碓氷峠の線路と架線は廃線後も未だにそのまま。
いつか、復活する日がくる様な気がする。
たくさんの仲間がいなくなってしまったが、残された強力たちは、
その時まで力を貯えていておくれ。
信越本線、横川駅にて。
あの頃は、ただ北を求めていた。
故郷へ帰る言い知れぬ思いを抱いた沢山の人々に混じり、
さも、故郷へ帰るがごとく、その雑踏の後ろから北を目指した。
目指したといっても、ただあても無く・・・。
青森の駅は、後ろ髪と前のめりの風が交錯する白い歩廊。
北の大地は凍れていることだろう。
あぁ・・・。
1983年暮れ。 青森駅。
娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように、
「駅長さあん、駅長さあん。」
後に複線化され、表日本と裏日本を結ぶ大動脈であったはずの上越線。
国境の駅は、交換も追い抜きも出来ないホームへ改造されてしまった。
もう二度と、「夜の底が白くなる」ことは無いだろう。
平成二十年の夏。
少しだけ胸のつかえが取れた気が・・・。
この写真、1980年6月1日と記録があります。
しかし、撮影そのものの記憶が定かではありません。
最近この近所に仲間が出来て、よく入り浸っていたんですが・・・。
あぁ、なんかモヤモヤした感じはこれだったのかぁ。
結構忘れていることって有るんだなぁ。
心のどこかで感じていたものが、ちょっとだけ見つかった感じでした。
岩原。
『いわっぱら』と読みます。
国境のトンネルを抜け汽車はどんどんと下る。
やがて、勾配回避のΩカーブを過ぎ、小さな無人駅に着く。
オメガカーブの頭上には今も昔もスキー場。
秋晴れのオメガカーブ。
岩原スキー場前駅~越後中里駅にて。
いつも、この季節が来ると想い出すところがある。
その頃、勉強で徹夜などしたことは無かったが、夜間撮影では徹夜したなぁ。
久しぶりに、駅で許可をもらい深夜の構内でのビデオ撮影をした。
風が良いし、音もいい。
一瞬昔を彷彿とさせるものが会った。
1980年9月15日。
機関区は無くなり、建物も何もなくなってしまった。
ただ夏草がおい茂る中、転車台だけがあの頃と同じまま。
傍らに、試運転で高崎から来たデゴイチが休んでいた。
夏空の下。