夕暮れを前に名残のすすきの向こうに列車が行く。
手を合わせ慈しみを持って、やがて来る夜を前に、今日一日が安堵できたかと
語りかけていらっしゃる。
「はい、おかげさまで」 と頷く自分は、頭を垂れ合掌。
足元を冷たい風が通り過ぎる。
2009年12月6日 越後湯沢~石打。
夕暮れを前に名残のすすきの向こうに列車が行く。
手を合わせ慈しみを持って、やがて来る夜を前に、今日一日が安堵できたかと
語りかけていらっしゃる。
「はい、おかげさまで」 と頷く自分は、頭を垂れ合掌。
足元を冷たい風が通り過ぎる。
2009年12月6日 越後湯沢~石打。
よく見ると白い上着で半ズボンの少年がデッキから身を乗り出している。
東北線の普通列車から客車が無くなる頃。
たぶん彼も鉄道ファンだったのだろう。
すれ違いざまに顔を見た気もするのだけれど、それは思い出せない。
まだ彼は鉄道ファンだろうか。
たとえ止めてしまっていたとしても、デッキに乗ったことは覚えているに違いない。
大宮駅でカメラを構えていた、ちょっと上のお兄さんは、今年、鉄道ファンに帰ってきたよ。
誰だかわからないが
「こんにちは」「元気かい」。
1978年10月 大宮駅。
ダイヤ改正前の一時、よく上野駅に行った。
あの頃の特急は正真正銘まさに花形だった。
高校生になったあの頃、デートの待ち合わせは駅のホーム。
「7番線の赤羽寄りのベンチで・・・」
「・・・・・」
せっかくエナメルの靴に鋲を打って、髪形も決めて、櫛まで胸ポケットに忍ばせていったのに・・・。
まぁフラれて、結局電車の写真を撮りに行っただけ。そんなこともあったっけ。
1978年9月 上野駅。
上野駅では手作業によるヘッドマークやサボの交換が毎日忙しく行われていた。
無造作に置かれている「やまばと」。
まさにボンネットの「看板」そのもの。
昨今の駅構内撮影における、一部のファンによる罵声などまったく無い長閑な時代。
時代が変わったとはいえ、当たり前すら変わってしまってよいものかと思う。
つまり撮らせて頂いているわけで、ファンのために列車はあるわけではない。
列車は乗る人の為にあるのが第一であって、それを撮る者は、ある意味、傍観者である。
小さい頃、列車に向かって手を振ったあの頃の想いが、鉄道写真の原点であること
忘れたくない。
1978年9月 上野駅。
寝台特急華やかし頃。
上野口へ着く車両は尾久では捌き切れず、そのうち何編成かは上野から東大宮へと疎開させられていた。
ハチマルの牽くゆうづるもその内のひとつ。
近くの100円ラーメン。そう酋長ラーメン。いまでもあるのかなぁ。
1978年7月 大宮~東大宮。
宮浜踏切。
いったい、どのくらい此処を渡ったのだろう。
青空と雲が、あの頃の自分を想い出させてくれる。
踏切の遥か先から今にもゴナナがパンタをゆさゆさと揺らしこちらへ走ってくる。
先台車と動輪が刻むリズムに乗って。
風が通り過ぎると眼をつむった。
2009年11月18日 東大宮~蓮田。
久しぶりに宮浜に来た。
厳密に言うと宮浜川自体の土手が低くなって当時のアングルとは若干の違いがある。
もちろん周囲の景色も変わり撮影自体出来ない場所もあり、時代の流れを感じる。
秋深まりもうすぐ冬。
あの頃見た空の色、そして武蔵野の雑木林。
変わらない鉄道の原風景。
宮浜バンザーイ!。
たまには宮浜・・・。なんてね。
1976年3月 東大宮~蓮田。
2009年11月18日 東大宮~蓮田。
夏の草いきれが匂うちょっと前。
まだ朝露に濡れている頃、次々と夜行列車が上ってくる。
20系が当たり前の頃の寝台特急。
「北星」が遠くみちのくの地からやってきた。
1978年7月 久喜~栗橋。
朝陽が当たり菜の花の向こうにブルーのラインが右から左へ。
越後路から帰った後も、春の日差しが此処宮浜にも射していた。
中学最後の春休み。
期待と不安・・・あんまり感じなかったなぁ。
間もなく2321レでゴハチの牽く雑客での通学が始まろうとしている。
1978年3月 東大宮~蓮田。
田んぼにはたくさんのはんの木が並んでいる。
遠くから新鋭183の1000番台の「とき」がやってきた。
窓から見える景色は、各駅停車だろうと特急、急行だろうと一緒。
東京へ出張だろうか、新生活に向かう新人もしくは学生かも・・・。
故郷の春の景色を忘れないで。
はんの木も手を振って見送っているよ。
お盆になったらかえっておいで。
1978年3月 押切~見附。