ボンネットの証。

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上野駅では手作業によるヘッドマークやサボの交換が毎日忙しく行われていた。

 

無造作に置かれている「やまばと」。

まさにボンネットの「看板」そのもの。

 

 

昨今の駅構内撮影における、一部のファンによる罵声などまったく無い長閑な時代。

時代が変わったとはいえ、当たり前すら変わってしまってよいものかと思う。

 

つまり撮らせて頂いているわけで、ファンのために列車はあるわけではない。

列車は乗る人の為にあるのが第一であって、それを撮る者は、ある意味、傍観者である。

 

小さい頃、列車に向かって手を振ったあの頃の想いが、鉄道写真の原点であること

忘れたくない。

 

 

1978年9月         上野駅。

 

「ボンネットの証。」への2件のフィードバック

  1. おっしゃること、まったくその通りですね。
    昨日とうとう【能登】季節落ちで489ではなくなり、そして【北陸】の廃止がアナウンスされました。沿線はこれから狂騒が繰り広げられるのでしょうが、昨今の騒ぎはSL末期と同じような一過性のブームにすぎんようでなりません。
    あともうひとつ寂しいのが鉄道がファンに媚びるような態度を取らねばならないほど小さくなってしまったことでしょうか。ある意味、昔の鉄道は「近寄りがたい」存在でした。それを片隅からそっと見させてもらってきた自分にとっては最近の現象についてゆきたくありません。

  2. コダックさん。
    ある意味今の鉄道写真の方向は二極化しているようにも思えます。
    SLがそうであったようにブームの一極としての流れと、それとは別に
    鉄道が好きという一極と。
    どちらも根底にあるものは鉄道であることには変わりないのだけれども、
    極端でやや乱暴な言い方をすれば、集団と群集の違いがあるように思えます。
    山登りでは今、空前の深田久弥‘的‘百名山ブーム。
    中高年の不安全登山と、それらを取り巻く商業主義。
    もちろん遭難も起こります。
    パイオニアワークにおける黎明期の冒険的登山と比べ、酸素ボンベを投げ捨て、
    パーティの体すらなさない真似事登山すら現れる始末が今の現状。
    つまり、自分の価値観を自分で確立することすら考えられない、依存型趣味の横行とでも言えましょうか。
    自分のスタイルを貫くとき、それが「的」ではなく自分自身であることを確認することが肝要なのでは。
    コダックさんの写真は周りの人に共感を与えるものです。
    こんな自分が言うのもなんですが、まさにパイオニアワークではないでしょうか。

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