こんなのも撮っていた。
一度だけ会津若松から乗ったきり。
中身は165系と同じだった様な気がした。
そんな記憶しかない・・・。
1981年1月 東北本線 久喜~栗橋。
高崎線通学の頃の話。
鴻巣と吹上の間は駅間距離があり新駅ができるともっぱら噂だった。
実際新駅が出来たのは卒業から暫くしてからだった。
この頃から一面田んぼと畑そして民家が点在する長閑な景色だったところへ、宅地開発が始まり
まずは区画整理、道路、電柱と出来ていったように思う。
ここは駅間が有り115系のクハ連結面通路から見るスピードメーターがぐんぐん上がり
モーター音が唸る区間であった。
直線区間で唯一横揺れがガクンと来るポイントがあった。
結構な横揺れで身構えてないとよろけるほど、慣れていてもつり革や棒につかまっていないと
いけないぐらいだった。
高校2年に上がると当然1年生が入ってくる。
電車通学初心者のこの一瞬を見逃すまいと面白がって見ていると・・・。
「そろそろ来るぞ」
ガックン!
「キャー」
熊女一年生の悲鳴が列車内に響く。
やったねざまぁみろ・・・。
新入生歓迎行事か。
横揺れするのはちょうどこのあたり、「とき」は颯爽と通り過ぎてゆく。
その後新駅が出来てもう揺れることはない・・・。
1980年12月 高崎線 鴻巣~吹上。
確か高校1年の1月だったと思う。
渋川の大正橋で撮影していた時の事。
撮影が終わり渋川駅まで歩いて帰ろうとしたところ、車に乗っていくかぃと声をかけてくれたのが
渋川の高校教諭をしていたOさんでした。
高校時代とにかくお世話になりました。
土曜日学校が終わると家に帰り支度をし銀箱三脚担いで電車に乗り渋川駅へ。
迎えに来てくれた先生の車でご自宅へ御厄介になりおいしい食事を頂く。旅館みたいな立派な部屋でふかふかの布団
で就寝。
翌日は早起きしていろんなところへ撮影に行くことが出来ました。
日帰りでもとにかく初めてのところへ色々と連れて行ってもらいました。草津や志賀・・・尾瀬も。
川場のSLホテルに一緒に泊まったこともありました。現役高校生にビールを進める先生・・・。
自分を息子ということにして、教職員宿舎に泊まったことも何度か。妙高や水上だったなぁ・・・。
谷川岳や至仏山に登山に行ったことも。
20代半ばから鉄道写真から遠ざかってしまってあまりお会いすることがなくなり、年賀状のやり取りぐらい
なってしまった。
昨年先生が亡くなられた。
今でも忘れられない数々の想い出・・・。思い出の場所・・・。
なんのお礼もできないままでした。
鉄道写真復活後の今、お会いしたかった。
この写真も先生と一緒でしたね・・・。
合掌。
1980年3月 吾妻線 川原湯~長野原。
35mmのモノクロから始め、後に35mmポジとのプレート二丁切り。
そしてマミヤC220のブローニと35mmモノクロの二丁切りへ。
高校2年ぐらいからはどちらかの手持ちの一台切りを含めてそんな感じだったように記憶する。ゴナナを撮っていたころは中学生なのでそれでもやっと一眼レフカメラ。当時は親にお金を出してもらい足りない分は家の仕事(自営業)手伝いで機材やら現像代を捻出していた。その頃うちでは中学に上がると家の仕事を時給いくらかで習うのが当たり前だった。当然兄貴もそうやっていたので自分もそのようにやっていた。兄貴が高校大学の頃、仕事が抜けられず、お前何々撮ってこいなんてこともあった。中学生が出来る仕事は限りがあったが兄貴はそこそこの戦力だったから。ある意味兄貴に言われて始めた鉄道写真撮影だったような気もする。最初のころ(とは言っても小学生高学年から中学生)は現像が上がると露出がこうの被写界深度が分かってないなんてダメ出しばかりだった気がする。
中学のころ周りの年上の人はみんなブローニを持っていた。社会人、学生といたがブローニのポジの中のゴナナの質感がうらやましかった。高校に上がるとブローニが欲しくなった。RBやゼンザブロニカは高くC330も手が出ない。リンホフ・・・なんじゃそりゃ。結局C220の選択しかなかった。330と220の違いはセルフコッキングが付いているかいないかの違いぐらいで、レンズはすべて一緒で問題はなかった。
やっと手に入れたブローニ。
もうゴナナは無くなっていたけれど。
1980年3月 高崎線 宮原~大宮。