久しぶりの石打。

石打駅。この頃は石打での運転停車の情報がまだそれほど知られていなくて、訪れるファンはほとんど無くのんびりと撮影ができた。更に厳冬期の1月ともなればよほどのもの好きかある程度覚悟が無くては夜中のバルブ撮影に出かけることは厳しかったように思う。

この写真は高校1年の1月のものだが、その前はというと中学2年の8月だから、ゴナナの終焉を見届け暫くしての訪問だった。もちろんポジによる石打のバルブは初めてということにもなる。

貧乏旅行が故どこで何を食べていたのかさっぱり思い出せないがどちらかと言えば食い気より鉄だったのではと。腹がグウグウ鳴っても何より楽しい時間でした。

撮影が終わり待合室のストーブが暖かかったことだけが想い出されます。

1979年1月   上越線。

上越線通い。

ポジの取り込みをしていて気づいたのだが1979年の1月だけでも3回上越線に撮影に来ている。ゴナナが無くなり完全に181や16といった方向にシフトしていたようだ。

鉄道ファンを公言する周りの人たちから見れば自分の撮影場所や車両の種類は本当に少ない。全然オールマイティではない。何故か・・。

単純に指向性の問題が大きく山と海だったら山。北と南だったら北。寒いところと暖かいところだったら寒いところ。都会と田舎だったら田舎。そんな理由もあるように思える。いまだに関越トンネルの向こう側に行くのはそのためなのかもしれない。上越線の新潟側なんて今やローカル線の様相だし車輌も画一的、イベント列車やネタもの以外ファンの姿を見ることはかなり少ないように思える。唯々見慣れた景色‥山々や川、そこに住まう人々・・・。自分のルーツが越後にあることも含めて・・・。

ふらっと岩原の大カーブに・・。大好きな山々に囲まれたあの地にいつまでも行きたい。

1979年1月   上越線。

115系1000番台。

新製間もないころの115系の1000番台。まだ冷房を積んでいない頃の初期の姿。

室内はアルミ基調で輝いていたし、網棚も従来の紐状の網ではなく金属に、サッシも改良されてすきま風が少なくなった印象だった。外観は初めからシールドビームだし連結器脇のトイレの換気口だかは大きくなって、そして窓枠もカクカクしてなんだか洗練されたイメージになったと記憶している。

今や越後線の115系が最後の国鉄型だとか言われ、ファンなんだかどうなんだか、わけがわからない輩がやたら出没しているようで・・。

地元の方にも挨拶しろ!畔や畑を壊すな!無用な場所取りや迷惑が掛かる駐車も慎め!・・・。あー嫌だ嫌だ・・・。なのでたぶん人が集まりそうなところへは行きたくないから今年は考えなきゃかもね。

1978年12月   上越線。

通学列車から。

ゴハチの牽く2321ㇾの右車窓。鴻巣から吹上の今で言う北鴻巣駅の手前、丁度駅前の区画整理や造成が始まったころで武蔵水路に架かる新しい橋が右に見える。

遠くには今と変わらず赤城連山が見える、皇海山から男体山にかけての稜線は冬型が強く雪雲が流れてきているのも分かる。

通学や通勤は大概同じ車両の同じ座席や扉だったりすることが多いと思うが2321ㇾの自分の位置は最後尾の車両がほとんどだったように記憶する。武甲山や秩父連山を眺めるのだったら進行方向左側になるのでこの逆の車窓が多かったように思うのだが鴻巣を過ぎると車輌が空くことが多く座席の往ったり来たりもしていたのだろう。

1978年12月   高崎線。

秋晴れ。

立ち位置はもう少し右に寄り後ろの道路の処理を、更に切り位置はもう少し引き付けてパンタの位置も考えていたら・・。とにかくそんな写真が多くて・・。

背中の栗林からこぼれた栗が撮影している農道に転がっていた。農道の先の踏切がカンカン鳴っていた。秋風が吹くと乾いた稲の匂いが段切りされた泥道の農道に上がってきた。

1978年9月   東北本線。

川井の鉄橋。

駅から青梅街道へ出て多摩川に架かるつり橋からのカット。このときも後輩のS水と電車を乗り継いで撮影に来た。

大宮~南浦和~西国分寺~立川~川井・・乗り換えが大変だった記憶がある。

つい先日そのS水からこのときつり橋で撮った二人の記念写真を見せてもらった。それがこちら・・・。高校1年の俺と中学2年の彼。当たり前だが二人とも若い・・・。

1978年11月   青梅線。