新雪なんだけど・・。

新雪の後追いカット。この先頭車両どう見ても車両側面の切り抜き形式が無いように見えるんですけど・・。

わかりません、そんなことってあるんでしょうか。JR後のJNRマークや特急マークが無いんだったらわかるけどね

1979年2月   上越線。

岩原の115系と165系。

当時のルーティンはまずは岩原駅から歩いて線路をくぐり冬季閉鎖された踏切脇から115系の場所、午後になると新日本スキー場の跨線橋を渡り民宿街から線路際のアウトカーブ定番が一日の流れ。

あの頃の天気確認は177に電話して長岡気象台発表の音声のみ。今だったらスマホで各気象サイトの詳しい天気が確認できるけど当時はそれが限界。考えてみると長岡と湯沢じゃ天気違うもんね・・。言ってみれば行き当たりばったり出たとこ勝負ってゆう感じだったなぁ。撮影に行きたくてうずうずしてるわけだから本当は天気は二の次だったもんなぁ。

銀箱担いで三脚持ってよく歩いたなぁ。定番だけど今も変わらない大カーブ・・。

1979年1月   上越線。

もう少しだけ石打の夜に・・・。

沢山の列車たちをこの夜も見送った。

来る列車は終着駅ではない限り当たり前だがずうっと其処にはいないわけで、もちろん終着駅と言えども次の列車が来る前に折り返したり車両基地に行ったりするわけだが・・。

石打は上州と越後の脊梁を結ぶ片方の基地であるからその峠道を往ったり来たりしている機関車たちが列車の先頭に立つ。もちろん彼らは本当の意味での終着駅を知ることは無い。

言い方を変えると土着の機関車たち・・・。

勾配用に作られた彼らだから当たり前と言えば当たり前だが、彼らの仕事場はいつも峠道だった。

ある時その機関車に乗せてもらった、石打から水上そして石打へと。つまり一往復峠道の先頭に立ったのだ。機関助手よろしく砂撒きやホイッスルを鳴らしたことは忘れない。縦揺れ横揺れガタゴトガタゴト、カモシカ君やウサギさんにごあいさつ。機関士は同僚たる機関車に語り掛けノッチを握り、トンネル抜けて鉄橋をゴウゴウ渡りホイッスルでもう一台の機関と合図を交わす峠道。

そう土着の機関車を相棒にして昼も夜もガタゴトガタゴト、ゴウゴウ、ガタゴト・・・。

そして今日の夜にこだまするホイッスル・・・。まぶたの裏側の景色に・・・。

1979年3月   上越線。

岩原で181。

あの頃の岩原や中里へ行くスキー客はほとんどが電車での移動だったと思う。関越も新幹線も無い時代特急急行はもちろんのこと各駅停車だってラッシュの満員電車並みの混雑でスキー客を山の向こうに運んでいた。電車内では銀箱と三脚が変に場所を取り難儀したことが想い出される。そして駅からはひたすら徒歩。アノラックにオーバーズボンそしてスパッツに防寒靴のいでたち。スキー客のカラフルな格好からすれば随分と地味な服装だった。

1979年1月   上越線。

はくたか。

北陸新幹線開業に合わせてほくほく線からはくたかが無くなり新幹線の名称となって久しいが自分にとってのはくたかはやっぱり上越線上野乗り入れの485がしっくりくるかも。それでもその後六日町から越後湯沢の間でスノーラビットなどの最後の活躍を見れたのはうれしかったが・・。

しかし誰が考えたのか水色に黄色なんてしかも白色の鷹の絵があるおかげで名前がさっぱり見えない。白山しかり残念なヘッドマークが特急の品を落としていると感じたのは自分だけかもしれないが・・・。

1979年1月   上越線。

8702ㇾ。

この日は12系9両。補機が付かなくてもゴハチは石打からの20‰を登ってきた。牽引数が少ないと補機が付かないことは分かっていたがそれにしても軽やかというより雪に足を取られてゼイゼイ言わして登ってきた感が。

土樽、清水トンネルまではまだまだ登りだよ、松川ループも待っている。頑張れゴハチ。

1979年1月   上越線。