特急と急行。

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編成美。

 

やっぱり特急急行はこうでなくちゃ。

昨今のJRときたら、本当にお客さんに乗ってもらおうと思っているのか疑問です。

多角化もいいけど本末転倒してはねぇ。

お客さんが乗らないから減車や廃止。その前にやるべきことは魅力ある列車(撮る側ではなくて)

の復活でしょう。 どこに何しに行く人が乗るの。こんな列車があったら乗りたい・・・。忘れていませんかねぇ。

廃線にしてしまった線路は本当に無駄だったのでしょうか・・・。

人員削減も本当に正しかったのでしょうか。

お客さんの声を聞くことが一番なのに、どこを向いているのか何処へ行くのか。

 

 

国鉄魂はどこへ行った。

 

 

1979年3月                         大宮~宮原。

 

残光。

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国境を小さな電車が駆け下りてきた。

今日最後の陽を浴びて。

 

親戚の人に連れて来てもらって初めてスキーをしたのが岩原。

家族でわらび採りに来たのが岩原。

彼女を連れてギンレイ体育館の脇の白樺の木をバックに写真を撮ったのが岩原。

181系「とき」の疾走する様を見送ったのが岩原。

 

子供たちをキャンプに連れてきたのが岩原。

 

 

時代が移り今日も此処に立っている。

眼を閉じるとありありと残光のように甦る懐かしい日々。

どうかその陽が消えませんように。

 

今日もスキー場の駐車場で野宿としゃれ込もう。

今日の一杯はまた格別だね。

 

 

2010年1月19日                  越後中里~岩原スキー場前。

 

ステンレス。

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高崎線を撮りに行くと、こんなのも撮れた。

 

一番手前は大宮工場からの試験線。隣りが川越線。右の上下が高崎線。

家からバイクで10分ちょっと。雑木林もまだ残っていた。

 

このキハは千葉からの転属組。ココじゃステンレスの意味無いよなーと。

 

 

1979年3月                   大宮~日進。

 

重連貨物。

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ロクニの貨物に15が付いている。

ジュウゴの貨物に62が付いているのか。

今となっては分かりません。あの頃は15も62も当たり前すぎて気にも留めなかった。

 

これも学校帰りかな。

 

 

1979年3月                  吹上~行田。

 

朝陽が昇り。

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山際から昇った朝陽がようやく差し込む。

 

天気予報ははずれ朝は良い天気になった。

遠いところへもってきて雪に列車の音が吸い込まれ

すべるように列車は行く。

 

足踏みしながら列車を待つ。

気持ちの良い朝だ。

 

 

2009年1月13日                  越後湯沢~石打。

 

途中下車で。

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熊谷からの学校の帰り、行田で降りる。

そこから吹上へ向かって歩くとこのカーブに着く。

 

この日はオールグリーンが来るのでカメラを持っていったのであろう。

団臨などの情報はいろんな仲間がいて逐一入っていたので助かった。

 

今だったらこんなのが走ったら此処も大変なことになるのだろう。

置き三脚や罵声が無かった良い時代だった。

たぶんこの日も自分ひとりだった気がする。

 

そういえば早退だったのかなぁ・・・。

 

 

1979年2月            吹上~行田。

 

跨線橋で新雪を見送る。

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熊谷駅の籠原寄りには踏切手による手動踏切があった。

すぐ脇には歩行者専用の跨線橋があり撮影が出来た。

 

2321レで熊谷に着く。

駅前に置いた自転車で学校へ。その前のひとコマ。

 

手前の影、左側には縦構図の手持ち撮影の自分が写っている。

 

 

今では新幹線も止まる大きな駅になり、当時の面影はかなり少なくなってしまった。

駅のホームに駅弁売りの売り子もいたっけ。

 

冬の陽射しは素適だけれど、これからからっかぜの中、学校まで自転車こがなきゃ。

高校1年の冬の土曜日。

 

 

1979年2月                 熊谷~籠原。

 

冬のデッキに・・・。

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さっき北海道から電話。

 

 

あの頃、ひたすらに、あの地を目指していた。

憧れ、それ以上の何かがあった。

忘れえぬ大切な時間。

今でもこの季節が来ると、止めども無く、慟哭にも似た想いや念想があたまと胸に鐘を鳴らす。

 

電話を貰わなかったらよかったかも。

しばれる体を温めることもできゃしない。

 

 

雪にかき消された床下の線路の継ぎ目のジョイント音が、今、胸の中でコロコロと運んでゆく。

遠い北の大地に。

 

 

おーい、おーい、おーいっ・・・。

 

 

                  北へ向かう列車のデッキ。 (ペンタ6×7・トライX・1984年1月)

 

会津と越後。

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雪の中、列車が交換する。

 

 

その昔、六十里や八十里の峠越え、また阿賀野川の水運で人や物の行き来があったのが

越後と会津。

今の魚沼地方の小出や、蒲原地方の津川は会津藩領であったことはあまり知られていない。

また、戊辰戦争の折、長岡藩家老河井継ノ助が最後に目指したのも会津の地だった。

 

会津鉄道の車両は新潟トランシス(旧新潟鐵工)製。

越後の車両が会津で活躍する。

 

雪深いこの地で、ディーゼルエンジンの音がカラコロと、麻糸を紡ぐように繋がっている。

 

 

2010年1月2日               芦ノ牧温泉駅。

 

水上の鉄橋で3重連。

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来た来た・・・。

あっもう一両付いてる。

 

パンタは上がっているか・・うーん残念。

 

いわゆる死荷重回送。

それでもめったに見ることが出来ない貴重なひとコマ。

 

同時に切ったリバーサルは露出オーバー。

2丁切りしておいてよかったなぁ。

 

 

1979年2月        水上~湯檜曽。