棚下で想うこと。

棚下  利根川が蛇行し赤城山の裾野の段丘に阻まれ大きく屈曲するところ。

 

かつて参勤交代が行われた江戸時代、高崎で中仙道と分かれた三国街道は渋川から北上し小野子山と子持山の鞍部を抜け塚原を通り下新田で今で言う月夜野からの国道17号線に至りさらに猿ヶ京、法師をへて三国峠に至る道筋でした。それとは別に上州沼田城下からの参勤交代や諸国巡見使や交易に使われた街道がありました。沼田から片品川を渡り森下、川瀬、長井小川田、溝呂木、米野、前橋に至るこの沼田街道は脇往還に過ぎず宿場制度が整備されていたわけではなかったものの利根、沼田地域からの様々な荷物の搬出路であった関係で途中の森下、長井小川田、溝呂木、米野の四か村は荷継ぎ場として整備されていました。1861年(万延2年)の米野宿2月28日から3月27日1か月の目的別通過者によると榛名、産泰、日光などの寺社参拝、191人、伊香保、草津、沢渡への湯治が79人、飛脚、大工などの商者47人、その他479人、そして越後へ帰国90人とあります。米野宿の位置からしてすべての人間が沼田への人数とは言えないし、その他の479人は近隣の地元住まいの生活の行き来であったとしても街道通行は1日平均20人以上はあったように思われます。気になるのは越後へ帰国の90人で、これは1754年の勝手造り令以降の日本酒の製造が四季醸造から寒造りに移行し越後杜氏が新潟から関八州へと出稼ぎに行く秋から早春の仕事が片付き越後へと帰郷する人々がかなりの人数含まれていたのではないかと想像してしまうのです。なぜかというとちょうど3月の時期的なものはもちろん地元へ帰れば農業従事者であるから商者には含まれないし、とりわけ目的別通過者に越後へ帰国の一項目があるところから帰国すなわち帰り道で杜氏は出身地毎集団で出稼ぎに行く訳からそんな風に思うのです。

 

さて、あらためてこの沼田街道の位置ですが、かつてのスキーブームの頃赤城の鉢巻( 南面)道路と言えば関越がまだ前橋までの時代渋川や沼田が大渋滞する国道17号のう回路として有名でしたがその途中に溝呂木があります。溝呂木宿のあったところです。国道353号にも溝呂木の信号があります。旧街道はそこから北上し現在津久田から上がってくる沼尾川沿いの道の長井小川田で交差し更に長井坂城跡を通り岩本の利根川左岸を進み沼田へと至るルートでした。

 

長井小川田はかつて南雲宿とも呼ばれ去年閉校になった南雲小学校があります。棚下寄りに藤木という集落がありこの街道にも面しています。藤木集落に住む85歳になるおじいさんと此の撮影場所に行く山道で出会いました。村の歴史やご先祖の話、戦中戦後の生活や疎開や養蚕や機織り、小学校や中学校の日常や修学旅行に行ったこと、棚下不動の様子や昔の道々の様子・・・。気が付けば2時間近くも経っていました。こんな古い話でなどと言いながら恐縮するおじいさん。とんでもないこんな貴重で楽しい話はありませんといろいろ質問しながらの時間でした。名刺をお渡ししお名前を聞き別れましたが是非ともまたお逢いしたい。ちなみにこの俯瞰場所はこのおじいさんちの持山だそうです。マナーを守って撮影してくれれば構わないとはおっしゃっていましたが、最近の鉄事情からすると少し心配になりました。

 

家に帰り古地図や街道のことを調べているとワクワクするのは性分でしょう・・・。

 

 

 

2018年2月14日       上越線   津久田~岩本。

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