此処。 魚沼の地には、魚野川と関越自動車道が貫流している。
地元名士、岡村貢が寄与し生涯を賭け開通に至った上越線も、忘れてはいけない。
名残の陽に新しい車両が通り過ぎる。
北陸新幹線が開通すれば、それは残照となるのだろうか。
此処。 魚沼の地には、魚野川と関越自動車道が貫流している。
地元名士、岡村貢が寄与し生涯を賭け開通に至った上越線も、忘れてはいけない。
名残の陽に新しい車両が通り過ぎる。
北陸新幹線が開通すれば、それは残照となるのだろうか。
いつも通る道。
つい、このあいだまで緑の景色だった気がする。
夏を通り過ぎて、短い秋をむかえ、やがて長い冬がおとづれる。
そして遅い春を待ち焦がれる。
営みとは、そんな日常の中に、うずもれてしまうものなのかもしれない。
あぁ今日は、巻機が季節にさよならを言っているようだ。
仕事前にちょいと早起きして、想い出の場所へ。
前の夜は、近くの駐車場で野宿。鹿が出てきました。
各地で初冠雪の便りが聞かれたこの日。
北アルプスから木曽山脈、南アルプス、八ヶ岳と、雪の降る順番がよく分かった朝でした。
長い夜が終わり、新しい日が始まる。
背中から日が昇り、景色が目の前に明らかになってゆく様を、過ぎ行く太陽の成長と共に
眺める。
次の景色はひょっとしたら退屈のような気がする。
上の原にて。
少し前の風景。
今年は、稲の輝きが何処へ行っても鮮やかだった気がする。
実りの秋を、小さな祠の中から、神様が眺めている。
地元の人の手向けた野花が一輪。
たおやかな季節でありますように・・・。
村松のはずれ。
国土計画。そう西武資本の乱開発から、かろうじて首の皮一枚。
此処、上の原は健在だった。
此処へ導いてくれた友は今何をしているのだろう。
武尊を教えてくれたあの友は・・・。
「星が降る、あのコル、グリセードで・・・・」
そう、山の唱を此処、上の原で満天の星の下、天の川の行進の下。
唄った。
幾度と無く、幾度と無く・・・。
お前は変わってしまったのか、俺があの時のままなのか。
もう一度、上の原へ行ってみたいと思いませんか。
娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように、
「駅長さあん、駅長さあん。」
後に複線化され、表日本と裏日本を結ぶ大動脈であったはずの上越線。
国境の駅は、交換も追い抜きも出来ないホームへ改造されてしまった。
もう二度と、「夜の底が白くなる」ことは無いだろう。
平成二十年の夏。
母方のおじいちゃんが亡くなったのは、小学校6年のときだった。
小学校4年のときから長い休みになると、独りで、田舎の親戚の家へ行っていた。
その頃住んでいた大宮から、初めて一人で「とき」に乗り新潟は見附へ。
駅まで送りに来てくれた母。扉が閉まると涙が出てきた。
途中のことはあまり覚えていない。ただ乗り過ごさないよう到着のアナウンスを聞き逃さないよう
していた。座席には座らず、デッキに立っていた。
見附の駅のホームにはおじいちゃんが待っていてくれた。
長岡の悠久山に親戚がいて、見附から「栃鉄」に乗っておじいちゃんと長岡に向かった。
途中具合が悪くなり走る電車の窓から吐く自分の背中をさすり気遣ってくれた。
おじいちゃんが亡くなったのは突然だった。
その年も夏休みに新潟に行き9月の新学期が始まってすぐのある日。
「栃鉄」に乗り見附温泉に行く予定で朝方家族が起こしにいったが調子が悪そうで、次に声を掛けたときには、すでに亡くなっていたとのこと。
報せを受けて、急遽学校を早退して「とき」にのり新潟へ向かった。
浦瀬の手前。
今でも「栃鉄」の線路跡が残っている。
小学4年だった自分が景色を見ている。
2009年7月 見附市内。
赤城を越えたら突然の雨。
まさに夏の夕立のよう・・・。
暫らくすると・・・。
まだ梅雨も明けてないのに、なんとも盛大な積乱雲。夕日に照らされ真っ赤になった。
遠く太田や熊谷のほうから雷鳴が聞こえた。
いつだったか朝焼けに照らし出された赤城の山を思い出した。
此処は群馬。
昨日は、長野は松本から大切なともだちが訪ねて来てくれた。
天気は今ひとつだったが、六日町の友達も合流して結局、宴会だったりして・・・。
松本の彼が言うには、旬の釣りには、もちろんあるがごとく付き物と、、、。
霧雨の彼方から眺める巻機山・・・。彼らは、はるかに優しく、其処に居た。
心優しき太公望、また。