湯檜曽の想い出・・・。

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湯檜曽駅を過ぎると行き止まりの国道はすぐに上越線をくぐり、そしてちょうど湯檜曽川を対岸へと渡る。

温泉饅頭を売る建物がすぐにあり、そこが湯檜曽温泉街。

平安時代の武将で厨川の戦いで敗れた安倍貞任の子孫が発見したといわれる古くからの温泉街。

その子孫とされる後裔が本家旅館という湯檜曽では一番大きな旅館を営業していた。

 

そしてそのすぐ隣にあったのが「おこのみや」という食堂。

始めて行ったのは渋川の先生に連れられてだと思う。

その後、ドライブや山登りで立ち寄ったことも多々ある。

海外遠征のヒマラヤの大きな写真が飾ってあった。当時の有名クライマーのサインがしてあるものだった。

 

旧湯檜曽駅に向かう坂道を上ると前出の本家旅館の裏に日帰りでよく立ち寄った旅館があった。

品の良い年配の女性がおられて、何度か立ち寄るうち顔を覚えてもらったことも忘れられない。

 

ある時は、旧湯檜曽駅に上るスノーシェッドというかコルゲートのようなトンネルを駅跡まで登ったことも。

旧駅にはコンクリートのホームが残り、黄色いペンキで~等車入り口と記してあったのを覚えている。

 

湯檜曽駅の記憶も・・・。

新線開業後は下り線はトンネルの中、上り線はループを降りたところという格好のやたらと待合室が大きい

シーズン中は水上から駅員が来たりまたその後は民間委託の駅だったと記憶している。

待合室で三連泊したことも。

前日の夜一人のクライマーと一緒になった。

遅い時間だったので挨拶もそこそこに就寝。彼は翌日谷川岳南面の笹穴沢か金山沢へ沢登りへ行くと。

平標へ詰めて元橋に降り湯沢までバスそして夜にはまた駅に戻ってくると言っていた。

在来線各駅停車の本数は今よりあるとはいえ夕方を過ぎてもなかなか来ない。まさか遭難・・・。

しばらくするとザックのカラビナにつるされた見覚えあるヘルメットの彼が下車してきて再会。

年が近いこともあり話が弾み遅くまで飲んだ。さぁ酒が尽きてしまった、彼はおもむろに立ち上がり

温泉街にあった扉の閉まった酒屋の板戸をドンドン叩く。出てきた店の人に何事もなかったかのように

冷静に酒を所望し、また駅へ。そして飲み続けた。翌日、名前も聞かずまたどこかでと別れた。

 

奥利根グランドホテルの先、今テニスコートのある先に橋がありさらにしばらく行くと左に降りる東電かなんかの

小屋への小さな道があり行き止まりには湯檜曽川を渡るつり橋が架かっていた。

袂で仲間と二人キャンプしていた時の事、夕方から清水方面より雷雨。此処の降りは大したことなく、

ただ、上流の本谷、流れ込む芝倉、幽、一ノ倉、マチガと岩盤帯による鉄砲水には以前も見聞きしていたので

湯檜曽川本流の水音には気をつけていた。

15分から30分おきに水位と音に注意し酒を飲んでいるせいかあまり酔ってない。

ほんのさっきは、チョロチョロ、やがてサー、ザー、ザブザブ、明らかに水位も増えているし、音が違ってきた。

気が付くと足のくるぶしまで上流の低いところからあふれた水が来ている。テントも寝袋も、渓流足袋も、酒も食料も

どうでもいい。相方のジムニーに乗り急ぎ一段上の国道へ。

どうしよう、とりあえず赤沢の先へ降りよう、ここも危ない。国道上にはすでに小規模な土石流が。

暗くなったころ湯檜曽駅へたどり着いた。駅の脇から見た湯檜曽川は川の中から火花が。大きな石がゴロゴロガラガラと

流れていく音は不気味だった。駅では寝袋もなくほんとにゴロ寝。ただし酒とつまみは新たに調達したんだけれどね。

下り列車がトンネルに入るとすさまじい風、夜も更け川の音はあっという間に静かになったけど、これは仕方がないと諦め

これまた新調した蚊取り線香の煙に燻され就寝。

 

 

 

 

青や緑の屋根が懐かしい。湯檜曽温泉街。

会社の保養所なんかも沢山あった。

そう・・・。あった・・・・・。

静かになるというのには寂しさも付きまとう。

 

 

 

「とき」が秋の素敵な日差しの下駈け下りてきた。

ループをくぐったら時代が変わってしまうのに。

 

上越新幹線開業まであと10日・・・・・・・・・・。

 

 

 

 

 

1982年11月       上越線   湯檜曽~土合。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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