高崎線にはこんなスジもあった。
荷物や寝台また客車などの工場入りの為の回送列車だったか。
ゴハチは当たり前すぎるぐらい「ふつう」の存在だった。
1979年3月 宮原~大宮。
高崎線にはこんなスジもあった。
荷物や寝台また客車などの工場入りの為の回送列車だったか。
ゴハチは当たり前すぎるぐらい「ふつう」の存在だった。
1979年3月 宮原~大宮。
水上から湯檜曽まで。
水上鉄橋の先の踏切から奥利根館の脇のつり橋まで線路際を歩いた。
遠くからモーター音。
堂々4パン。
銀箱と三脚が湯檜曽の駅に着く頃はさすがにちょっと重いと感じた。
1979年3月 水上~湯檜曽。
利根川が刻む河岸段丘の下の小さな集落。そこが棚下。
崖上をテーブル(棚)と考えればまさに棚の下にある。
此処、「津久田~岩本」間は最近はデゴイチの撮影場所としても有名なようだ。
集落の様子などはあの頃とあまり変わりない。
1979年3月 津久田~岩本。
編成美。
やっぱり特急急行はこうでなくちゃ。
昨今のJRときたら、本当にお客さんに乗ってもらおうと思っているのか疑問です。
多角化もいいけど本末転倒してはねぇ。
お客さんが乗らないから減車や廃止。その前にやるべきことは魅力ある列車(撮る側ではなくて)
の復活でしょう。 どこに何しに行く人が乗るの。こんな列車があったら乗りたい・・・。忘れていませんかねぇ。
廃線にしてしまった線路は本当に無駄だったのでしょうか・・・。
人員削減も本当に正しかったのでしょうか。
お客さんの声を聞くことが一番なのに、どこを向いているのか何処へ行くのか。
国鉄魂はどこへ行った。
1979年3月 大宮~宮原。
高崎線を撮りに行くと、こんなのも撮れた。
一番手前は大宮工場からの試験線。隣りが川越線。右の上下が高崎線。
家からバイクで10分ちょっと。雑木林もまだ残っていた。
このキハは千葉からの転属組。ココじゃステンレスの意味無いよなーと。
1979年3月 大宮~日進。
ロクニの貨物に15が付いている。
ジュウゴの貨物に62が付いているのか。
今となっては分かりません。あの頃は15も62も当たり前すぎて気にも留めなかった。
これも学校帰りかな。
1979年3月 吹上~行田。
熊谷からの学校の帰り、行田で降りる。
そこから吹上へ向かって歩くとこのカーブに着く。
この日はオールグリーンが来るのでカメラを持っていったのであろう。
団臨などの情報はいろんな仲間がいて逐一入っていたので助かった。
今だったらこんなのが走ったら此処も大変なことになるのだろう。
置き三脚や罵声が無かった良い時代だった。
たぶんこの日も自分ひとりだった気がする。
そういえば早退だったのかなぁ・・・。
1979年2月 吹上~行田。
来た来た・・・。
あっもう一両付いてる。
パンタは上がっているか・・うーん残念。
いわゆる死荷重回送。
それでもめったに見ることが出来ない貴重なひとコマ。
同時に切ったリバーサルは露出オーバー。
2丁切りしておいてよかったなぁ。
1979年2月 水上~湯檜曽。
米沢から福島だから米福型と言うらしい。
もちろんその時代のことは知らない。
奥羽本線が直流?。
今では新幹線規格になってしまい、その前は狭軌の交流だったから、その前のことだ。
幸い豪雪地の勾配用という事で、その後、ここ水上機関区と長岡機関区に集中配備され
晩年を送ったのだ。
中でもヘッドライトや乗務員出入り口の上のヒサシが付いているものは一際異彩を放ち
人気を博した。
1979年2月 水上機関区。
岩原での2カット。
なんてったって当時の定番ポイント。
朱鷺にいなほなんて今考えてみても良い名前だなぁ。
銀箱持って三脚かついで駅から歩くのが昔。
汗かくと待ってるあいだ結構寒いんだなぁ。足はしもやけになるし。
ちなみに携帯カイロって知ってますか・・そう白金カイロ。家を出る前にカイロの芯に火をつけて
現場に付く頃にはあったかいのよ。
1979年2月 岩原スキー場前~越後中里。