宇都宮の65も数本ではあるが遠く新潟まで顔を出していた。
富山の81も東新潟の15も・・・。
なんてこと無い7:3構図ばかり。
しかし田んぼがいいなぁ。
風を思い出す。そう、着ていたヤッケの色までも空色だったっけ。
1978年3月 見附~帯織。
宇都宮の65も数本ではあるが遠く新潟まで顔を出していた。
富山の81も東新潟の15も・・・。
なんてこと無い7:3構図ばかり。
しかし田んぼがいいなぁ。
風を思い出す。そう、着ていたヤッケの色までも空色だったっけ。
1978年3月 見附~帯織。
春の日差しがどこまでも続くように線路も延びる。
昼下がりローカル4連が田んぼの中を通り過ぎる。
そういえば何日か滞在していたのだが、昼飯の記憶が無い。たぶん食べなかったのだろう。
今でもそうだが、出かけるとどこか食堂やレストランへ入ることはめったに無い。
なんとなく恥ずかしいのと、人の中にいる事が嫌いだから。
まぁコンビニの弁当がイイところ。
あの頃はコンビニもなく、遠征でも初日のめしは自宅で作ったおにぎりを持っていったし、
水は水筒。冬、石打の駅にバルブに行ったときはおにぎりがカチンコチン、水筒はシャリシャリ
いっていた。
考えてみるとたまに食べる駅そばが贅沢だったなぁ。
今、この陸橋の上を車で通る。
助手席のかたわらには買ってきたおにぎりとペットボトル。
煙草を燻らせて。
横目で真っ直ぐな線路を見ながら。
1978年3月 見附~帯織。
ダンプ道路のクハ181の65番とローカル10連。
ここでも会えた65番。
当たり前のように編成が長いローカル。
やっぱり素敵だよ。
良い陽射しは続く。
1978年3月 見附~帯織。
通称「ダンプ道路」。
今ならば見附のツタヤから大平公園へ行く道といったら分かりやすいかな。
当時は道路が出来てすぐの頃で、一般車より何かの開発のための道路だったのか
やたらとダンプが行き来していた。
この頃のローカルは編成も長く絵になった。
クハ75やクハ68もいて、70系の天下といったところで沢山の列車を撮ることが出来た。
残雪の山々、区画整理されていない田んぼ、はんの木もあり、一日いても飽きないところだった。
当ブログ記事の9月11日の写真はまさに此処。(一枚目写真の左から撮ったもの)
1978年3月 見附~帯織。
田んぼには稲を干すたくさんの「はんの木」。
やっと雪解けなった田んぼに春の日差しが輝く。
田おこしはレンゲが咲いて畦にセリが出てから。
(モードラも無い時代、木々のあいだで押さえるのには気を使った。)
春の越後路は田んぼのにほいと青い空白い雲。
同じ風でも何と心地よいものか。
1978年3月 東光寺~三条。
見附~帯織。
やっと高崎。
天の川に抜かれる。
20系にブルーのゴハチ。似合うねぇ。
駅そば食べて・・・さぁ。
着いたのは長岡。
新幹線の高架が出来様変わりしている。
まずは原型窓の76がいらっしゃい。
ちょっと眠たいけど、乗り換えて・・・。
1978年3月 高崎駅。
長岡駅。
春休み。
中学を卒業し高校へ上がる前の一番楽しい時間。
さぁ何処へ行こう。
181や70系!。そう春まだ浅き越後へ行こう。
記憶に無いのだが、どうやら始発から乗るために上野へ行った様だ。
とりあえず181「とき」から・・・。
1978年3月 上野駅。
大好き181。
他のロングスカートが次々廃車になったこの頃、65番が来るとうれしかった。
ここ大成橋界隈は今では新幹線が出来て風景は一変した。
春の日差しがなつかしいなぁ。
1978年3月 大宮~宮原。
クロ151-10。
由緒ある正統派こだま型。
クロハを経てクハ181-65となってもロングスカートのまま、その精悍で端正な顔立ちは
最後まで残った旧151系の中で群を抜いていた。
やっぱりかっこいいねぇ。
1978年3月 大宮~宮原。
「とき」は一晩を関東の寒空の下を過ごし、再び暗澹たる地へと赴く。
関東の冬のからっかぜをものともせず、畑地を疾走し、大河を渡り、分水嶺の脊梁をくぐり
そして雪道へと向かう。幾度と無く繰り返す彼の勇気に「行ってらっしゃい」と手を振ろう。
かつてヒーローだったウルトラマンのエネルギー源は太陽光だった。
そう、こんな冬の陽の下でも。
1978年2月 大宮~宮原。