困民党・鯨波の声が木霊するところ。今は穏やかな春。

2015 04 18_0025_2.jpg

「後から来た人は解釈が先に立つからね」といった詩人が言った言葉が思い出される。

 

遠く戦国時代は鉢形北条氏の末裔が隠れ住んだと伝えられる此処風布の里。

豊臣勢の圧倒的軍勢の前についに落城した鉢形城であるが、今も寄居の町では北条氏を偲ぶ祭りが開かれる。

 

古くは秩父往還の街道筋に近く、遠く甲州街道そして雁坂峠を経て関所で有名な栃本を通り秩父へ出て三沢の谷へそして

此処釜伏峠の頂に立ちいよいよ武蔵の地へ下ろうとする地が風布なのです。

 

此処風布はかつて八十もの祭事風習を持つ集落でした。過疎化が進む現在ではそのすべてを伝承するのは難しくなって

きているようですが、現在でも阿弥陀堂の前で年四回行われる廻り念仏が有名です。本来は集落内の各戸を廻り行って

いたのですが高齢化と過疎化で現在の形となったようです。

 

忘れてはならないのがある意味秩父困民党蜂起の一番狼煙とも言うべき地が此処風布なのです。

 

参加人数1万、時の政府を震撼たらしめ、自由民権思想を持つ指導者の下、吉田の椋神社で軍律五ヵ条を篝火燃え盛る

境内で高らかに読み上げ、そこに集まった3千人の農民は鯨波の声を上げ、悪徳高利貸し打ちこわし、無政者にして無関心な

為政者の象徴でもある郡役所、警察、役場を次々と襲い証文等を焼き払い、負債農民救済を目指したことで有名なあの事件です。

 

明治17年11月1日椋神社の一斉蜂起の前日、つまり10月31日の夜8時ごろ「雷カ大砲ノ音スル」と書いた遠く両神村の篤農家

柴崎谷蔵の残した木公堂日記にも記されている、闇を切り裂く秩父事件の発端を告げる号砲こそが、此処風布の山の上から

発せられたのです。

事実、風布からの事件参加者は当時八十戸あまりの集落で不参加の戸数は僅か三、四戸と言われています。

戦闘中に戦死するもの、行き果て(出て行ったまま帰らない行方知れずの者)となった者、捕縛され刑に服した者、

その後の生活は、赤ハンテン(その当時の囚人服を揶揄したことば)と後ろ指注され、孫子の代までそういうことがあったと

話してくれたおばあさんの話を直接聞いたこともありました。

 

当時の新聞は伝えています。

「尋常ノ貧民ノミニアラズ、政治上ノ不平ヲ抱ク者モアルモノト見ユ」。

 

 

 

今朝、その風布は阿弥陀ヶ谷耕地を遠望する。

穏やかな一日でありますように。

 

 

2015年4月18日       風布  阿弥陀ヶ谷耕地。

帰りしなの時間。

2015 04 09_0084_2.jpg

仕事終わりの道すがら。

ちょうど125レの時間。

宮浜でも眺めて帰ろうか・・・。

 

土手道を覗くと兄貴の車があるじゃないか。

背後から兄貴の三脚についている雲台に目をつけた。

「・・・これはもうちょっと右振りだよ」といきなり手をかけ雲台を回した。

 

突然のことで一瞬びっくりする兄貴。

もちろん兄貴の構図にケチをつけるなんてことはありえない。

「冗談オレだよ・・・」

 

暫くすると北斗星が現れた。

少しの時間だけど楽しかったなぁ。

まぁ結局兄貴のとなりに陣取ったけど違う構図で撮りましたけど。

 

 

2015年4月9日                東北本線   蓮田~東大宮。

春が来て。

2015 04 02_0038_2.jpg

秩父の貨物は工場点検のため、後半月近く運休・・・。

 

デキと桜が今年もおあずけ・・・。

 

 

 

広瀬川原にやってきた、沢山の鉄がいる。

暫くすると遠くからC58の汽笛が・・・どおりで・・・。

 

C58が行くと暫し静寂。

懐かしい秩鉄カラーの横を各停が通り過ぎる。

 

 

風が爽やかなお昼前。

煙草咥えて青空を満喫。

 

 

2015年4月2日          秩父鉄道   広瀬川原。