後の家々は今も変わることなく健在の様だ。
すぐ横をスキーヤーがいたように記憶している。
ちょうど上越国際スキー場のあたりは、ゲレンデがそんな感じではなかったか。
しもやけの足を毎晩お風呂で揉み解す。
出かけるとなれば、唐辛子をボアの長靴に入れて。
あの頃、カッコなんか気にしなかったなぁ。
1980年1月 塩沢~大沢。
後の家々は今も変わることなく健在の様だ。
すぐ横をスキーヤーがいたように記憶している。
ちょうど上越国際スキー場のあたりは、ゲレンデがそんな感じではなかったか。
しもやけの足を毎晩お風呂で揉み解す。
出かけるとなれば、唐辛子をボアの長靴に入れて。
あの頃、カッコなんか気にしなかったなぁ。
1980年1月 塩沢~大沢。
こんなのも撮っていた。
今では埼京線なんて呼ばれているが、この頃はもちろん非電化。
キハ30、35、36・・・。
隣りの高崎線の下りは、15の牽く貨物、トラが付いていたり・・・。
雪が残る大宮は大成橋で。
1980年1月 日進~大宮。
本当にあの頃の情報は凄かったなぁ。
今みたいにネットもなく、ダイヤ情報もそんなに詳しくはなかった。
なのに、あるルートからの情報は絶対で、いろいろな列車を撮影することが出来た。
でもこの日、此処で撮っていたのは自分だけだったように記憶している。
もう、イベント列車を追いかけることはなくなった。
和気あいあいも楽しいけど、やっぱりひとりの方が気楽だからね。
まぁ、こんな列車でも、当時は人が集まることはなかったから撮っていたということかな。
1980年1月 宮原~大宮。
岩原の165キロポストの踏み切りに差し掛かる183とき。
軽トラしか通れないような小さな踏切。
冬になると閉鎖されてしまう。
指差往呼して慎重に渡る。
三脚を構え暫らくすると、タイフォンを鳴らしライトを点灯し「とき」がやってきた。
手を上げ合図をし、その後レリーズを切る。
雪がしまっていてさほど雪煙は立たない。
今では、踏切はなくなり立体交差になり道路が下をくぐる。
1980年1月 岩原スキー場前~越後中里。
岩原の保線小屋。
煙突も付いていて、作業の合間にストーブでも焚いていたのだろうか。
でも、この年は雪が少なく小屋も見えるが、普段の年は雪の壁となり、
小屋そのものも使えなかったはず。
当時、この定番構図に、編成が切れ小屋を入れることを嫌っていたむきもあったが、
今となっては懐かしい。
1980年1月 岩原スキー場前~越後中里。
なにはともあれ、久しぶりの更新です。
今も、金沢から越後湯沢まではくたかが走っている。
その昔、魚沼丘陵の築堤を見て、未成線かぁ十日町のほうへ行く線路らしい
そんな風にしか思っていなかったあの線路にほくほく線が出来るなんて想像も付かなかった。
もうちょっと足を伸ばせば、此処にも来れるのに。
1980年1月 越後中里~岩原スキー場前。
拙いブログのモノクロアースイブスも1974年から、やっと、1980年までやってきました。
1980年のしょっぱなは、やっぱり、大好きな石打で。
雪が少ない年明け、前日は岩原に居て、夜はやっぱり石打。
ストーブが一晩中焚かれた待合室に戻ったのは、4時近くだった。
ちょうど64が投入され始めた頃。
実は、昨日も仕事で、苗場に行ってきたのだが、17号を逸れ、石打駅前の岡村貢翁の
銅像を拝んで帰ってきた。
真夏の石打は、稲が青々とし、白い雲が山の端に浮かび、緑の風が吹いていた。
線路の際は、鉄の擦れた匂いと、草いきれ。
季節こそ違うけど、あの頃と変わらない自分がそこには居た。
1980年1月 石打駅。