落葉松の畑。

近くに野宿して毎日大正のコープへ買い出しに行き夜な夜なビールを飲み独り過ごすこと約一週間。天気が良くなく十勝界隈を雨の中ロケハンをしていた車の走行距離が随分と延びた。晴れたらあそこからここからこう撮りたい・・そんなことを考えながら過ごしていた。

前の晩から雲が取れだした、北海道の朝は早い。3時過ぎに起き出し思っていた場所へと向かう。結局夕方までうろうろしてほとんどの時間をここいらで過ごした。

何回4×5の機材をセッティングしたことか、気が付いたら朝飯も昼飯も食べていなかった。デジカメも無い時代もちろんモニターもある訳ない・・現像も上がってこないのに満足した気持ちでその晩は独り前祝をした。

1987年7月   十勝界隈。

ウイスタ4×5VX テレアートン270mm  RFP

あの景色。

それは。

いつだったか・・多分あの頃の菓子の空き箱の中に景色がある・・乾燥剤と一緒に・・・。

確かに自分が見た景色。

取り出して見る事もあまり無い、昔の景色なんだけど・・。

そおっと箱を開け見てみると十勝のあの景色。

1986年7月   十勝界隈。

ウイスタ4×5VX フジノンT400 RFP

秩父盆地。

何度通ったことだろう。

幾重にも重なるその山襞にひとつひとつ営みがある。

明治17年11月に起こった出来事は、正にそんな小さな狭い狭い、影と日向の耕地の人々の叫びにも似た、やむに已まれずして起こった民衆エネルギーの爆発であった。

度重なる官民に対する陳情は無視され地下に潜ってのオルグ活動、そしてついに時の政府の出先である郡役所や警察署を占拠。悪徳高利貸しに対する焼き討ち。軍律5か条を掲げ正々堂々と戦った。

僅か数日間とはいえ、時の政府を震撼させ最終的には鎮台を動員せざる状態にまでに昇華させた其の行軍はあっぱれであった。

われら秩父困民党 暴徒と呼ばれ暴動といわれることを拒否しない

山襞の底辺は此処高いところからでは見えない。そう、高いところから自分の足で峠を一つ一つ越えて行かなければ何ひとつ見えるものは無い。

秩父は山の中・・・。峠の国。

1985年12月   秩父界隈。 

ウイスタ4×5VX ジンマー210mm RFP

もう一つの秩父。

かつての秩父の姿を語るうえで養蚕は外せない。

小正月の繭玉に込めた思いをしてもどれだけ蚕を大切にしていたかわかる。その蚕の食べる桑の葉ももちろん大切にしてきた。

今は随分とその桑畑も減ってしまった。産業の移り変わりと言えばそれまでだが・・・。

聖なるお山武甲山は自らの体を削り秩父の民に生きる糧をあたえて今に至る。そして削られた体の一つ一つを小さな機関車は都市へと運んでいる。

たぶんこれからもずぅっと・・・。

1979年1月   秩父鉄道。

和銅大橋。

まだバイパスもないころ。蓑山にトンネルが通るとは夢にも思わない時代。140号線の黒谷を過ぎると川向うに至る新しい橋が出来たようだ。そして其の橋から見える秩父鉄道の鉄橋。

出来たばかりの橋の上から写真を何枚か撮ると河原へ降りてみたくなり、更には浅瀬を伝い右岸へ。見上げる鉄橋は夕陽に照らされていた。

帰りしなの水が冷たかったこと。更にはバイクに乗り薄暗い電球で照らされた道を帰ってきたんだっけ。

1978年11月   秩父鉄道。

冬の秩父の色。

冬が来ると秩父の景色を想い出す。

遠く西の空に奥武蔵の低山を望み頭一つ抜きんでた武甲山を確認する。更に向こうには両神山から連なる武信国境の山々。

バイクに機材を積んて゛その山懐である秩父の盆地へと足を踏み入れると、関東とは違うキンとした空気に触れることができる。

其の余韻は、今も昔も変わらない。

1979年1月   秩父鉄道。