八海山夕景。

今年の2月に此処へあがってみた。弊ブログの2月の記事に写真がある。カンジキ履いて歩いたところはもちろん雪は無く季節の巡りを想う。

夕方になるとモヤって来て八海山が霞んでしまい日差しも弱くなってしまった。

それでも今日最後の陽がキハをほんのり照らしてくれた。

2020年4月15日   只見線。

桜の季節。

今年の桜の花の付き方は例年になく良いようだ。雪が少なく枝が折れることがなく鳥たちも花芽を突くことがなかったからかもしれない。

魚沼に来ると今住んでいるところより少し季節が戻る訳で花粉が旺盛。違う意味でマスクは欠かせない。

2020年4月15日   只見線。

魚沼の春は。

こんなに素敵な春なのに・・・。

心躍る気持ちになれない・・・。

有名お立ち台のような人の集まる所へは普段から行かないと言えばそれまでだが、なんとなく気がそぞろの訪問。地元の人との会話も無く、原信にも寄らずいつもと違った3日間だった。もちろん野宿も誰もいないところでのことではあるが・・・。

2020年4月17日   只見線。

はくたか。

北陸新幹線開業に合わせてほくほく線からはくたかが無くなり新幹線の名称となって久しいが自分にとってのはくたかはやっぱり上越線上野乗り入れの485がしっくりくるかも。それでもその後六日町から越後湯沢の間でスノーラビットなどの最後の活躍を見れたのはうれしかったが・・。

しかし誰が考えたのか水色に黄色なんてしかも白色の鷹の絵があるおかげで名前がさっぱり見えない。白山しかり残念なヘッドマークが特急の品を落としていると感じたのは自分だけかもしれないが・・・。

1979年1月   上越線。

8702ㇾ。

この日は12系9両。補機が付かなくてもゴハチは石打からの20‰を登ってきた。牽引数が少ないと補機が付かないことは分かっていたがそれにしても軽やかというより雪に足を取られてゼイゼイ言わして登ってきた感が。

土樽、清水トンネルまではまだまだ登りだよ、松川ループも待っている。頑張れゴハチ。

1979年1月   上越線。

久しぶりの石打。

石打駅。この頃は石打での運転停車の情報がまだそれほど知られていなくて、訪れるファンはほとんど無くのんびりと撮影ができた。更に厳冬期の1月ともなればよほどのもの好きかある程度覚悟が無くては夜中のバルブ撮影に出かけることは厳しかったように思う。

この写真は高校1年の1月のものだが、その前はというと中学2年の8月だから、ゴナナの終焉を見届け暫くしての訪問だった。もちろんポジによる石打のバルブは初めてということにもなる。

貧乏旅行が故どこで何を食べていたのかさっぱり思い出せないがどちらかと言えば食い気より鉄だったのではと。腹がグウグウ鳴っても何より楽しい時間でした。

撮影が終わり待合室のストーブが暖かかったことだけが想い出されます。

1979年1月   上越線。

上越線通い。

ポジの取り込みをしていて気づいたのだが1979年の1月だけでも3回上越線に撮影に来ている。ゴナナが無くなり完全に181や16といった方向にシフトしていたようだ。

鉄道ファンを公言する周りの人たちから見れば自分の撮影場所や車両の種類は本当に少ない。全然オールマイティではない。何故か・・。

単純に指向性の問題が大きく山と海だったら山。北と南だったら北。寒いところと暖かいところだったら寒いところ。都会と田舎だったら田舎。そんな理由もあるように思える。いまだに関越トンネルの向こう側に行くのはそのためなのかもしれない。上越線の新潟側なんて今やローカル線の様相だし車輌も画一的、イベント列車やネタもの以外ファンの姿を見ることはかなり少ないように思える。唯々見慣れた景色‥山々や川、そこに住まう人々・・・。自分のルーツが越後にあることも含めて・・・。

ふらっと岩原の大カーブに・・。大好きな山々に囲まれたあの地にいつまでも行きたい。

1979年1月   上越線。

115系1000番台。

新製間もないころの115系の1000番台。まだ冷房を積んでいない頃の初期の姿。

室内はアルミ基調で輝いていたし、網棚も従来の紐状の網ではなく金属に、サッシも改良されてすきま風が少なくなった印象だった。外観は初めからシールドビームだし連結器脇のトイレの換気口だかは大きくなって、そして窓枠もカクカクしてなんだか洗練されたイメージになったと記憶している。

今や越後線の115系が最後の国鉄型だとか言われ、ファンなんだかどうなんだか、わけがわからない輩がやたら出没しているようで・・。

地元の方にも挨拶しろ!畔や畑を壊すな!無用な場所取りや迷惑が掛かる駐車も慎め!・・・。あー嫌だ嫌だ・・・。なのでたぶん人が集まりそうなところへは行きたくないから今年は考えなきゃかもね。

1978年12月   上越線。