渋川駅から歩いて利根川を渡り敷島側へやってきた。
切り欠きスカートの64番の「とき」を撮る。榛名山がバックに望める良いところだ。
午後になり大正橋西詰めの定番ポイントへ。
183の「とき」も撮ってと。
その後、幾度と無く通った大正橋界隈。
時に暑さの中、敷島まで歩いたり。
空っ風に唇を乾かし、しもやけの足にまさに地団駄踏んだり。
また、鉄道写真の大先輩、渋川の先生に初めて出合ったのも、ここ大正橋でした。
1977年9月 渋川~敷島。
渋川駅から歩いて利根川を渡り敷島側へやってきた。
切り欠きスカートの64番の「とき」を撮る。榛名山がバックに望める良いところだ。
午後になり大正橋西詰めの定番ポイントへ。
183の「とき」も撮ってと。
その後、幾度と無く通った大正橋界隈。
時に暑さの中、敷島まで歩いたり。
空っ風に唇を乾かし、しもやけの足にまさに地団駄踏んだり。
また、鉄道写真の大先輩、渋川の先生に初めて出合ったのも、ここ大正橋でした。
1977年9月 渋川~敷島。
朝一番の電車に乗り籠原で接続乗り換えの後高崎へ。
吾妻線のローカルが5番線に入線している。
跨線橋を渡り上越線に乗るべくホームで待っていると12の単回。
よく見ると後方に115も見える。
さぁ渋川へ行こう。
1977年9月 高崎駅。
都電の写真はほんと少ない。
6000系が無くなるというので何度か撮りに行ったのだが、うろうろしただけ。
しかし、下町っていうのはなんか惹かれるものがあるなぁとは思っていたようだ。
何より料金がどこまで乗っても一緒というのに驚いた。
1977年8月 都電荒川線 王子駅、三ノ輪橋駅。
朝早く自転車で行ったのだろうか。
編成を見て寝台とグリーン車があるところからすると津軽1号かな。
そういえば、以前は上りも1号2号と呼んでいたのだが、あるときから列車番号に準じて、上りは偶数
下りは奇数と呼び方が改められた。
ゴハチの123番。Hゴム化やデフロスター取り付け前の原型小窓の頃。
3番線には東大宮からの回送電車も写っている。
1977年8月 大宮駅。
宮浜の朝は朝露に濡れて明ける。
堂々の編成を牽くのはゴハチ。
日が昇り輝く。
さぁもうすぐ終着駅ラストスパート。
1977年7月 東大宮~蓮田。
思川と書いて字の通り「おもいがわ」。
ゴナナ無きあとデッキ付きといえばこのEF12でしょう。
両毛線にやってきました。
しかし、ろくなカットが無く駅撮りで失礼。
良かったのは駅名だけ・・・。
1977年4月 思川駅。
村々はまだ雪の中じっと春を待っている。
雪の層が今年降った雪の日を思い出させる。
線路の雪はもう解けた。
春はすぐそこだよ。
1977年3月 六日町~五日町。
雪晴れの中つるぎを牽くEF81。
今日(2009年8月30日)見た81はくすんでいた。
日本海の荒波を受け日々仕事をしてきた結果、それとも手入れをするべく状況が無いのか。
それにしてもヘッドマークがあればなぁ。
1977年3月 前川~来迎寺。
ホームの駅蕎麦屋は、谷川岳へ向かう登山客やクライマーでこんな時間でも大盛況だ。
バルブ撮影をしてから行くと売り切れ。
土合駅から始まるいきなりの登高のエネルギーになるのかな。
シュリンゲに吊るされたカラビナが鈍くひかり、乾いた金属音を響かせる。
ザックの雨蓋からのぞくザイルの赤、そしてヘルメットの傷がかっこいい。
こっちだって銀箱のこすれと三脚の傷がかっこいい。
俺の明日の活力はだるま弁当だ。
ゴハチの35番が牽く「天の川」が733Mを追い抜いてゆく。
1977年3月 高崎駅。
乗り継いだ先、青梅駅にはクモハ40が待っていた。
無骨で正義を貫く父親、そして何よりも昭和の気概を持ち戦後を生き抜いたあの人。
8月15日は父親の命日。
戦争が激しくなる頃、新潟から東京は大森へ丁稚奉公に出た。
あの京浜空襲の中、大八車を牽き奉公先の機械を運び出した。
グラマンのパイロットは機銃掃射を浴びせ、ドブ板に倒れこんだ彼のすぐ脇、
銃弾を機械に貫通させ飛び去った。
ドブから這い上がった彼の顔は、汚れていたのではない。
たぶん生きていることに顔を歪め何かしら笑っていたのだろう。
生きるか死ぬか。自らの意思において決定できない時代が身近にあった。
無骨な茶色の電車を見て8月のあの日を思い出した。
1977年3月 青梅駅。