夏の陽炎に往く気動車。
今では考えられない景色。実は日進駅に進入する後追いの写真。腕木式信号機が懐かしい。
電化される前はこんな感じだったんだよね。
ふらりとバイクに乗ってきたような気がする。
梅雨明けの今に想いを馳せて・・・。
マミヤC220
1981年8月 川越線。
夏の陽炎に往く気動車。
今では考えられない景色。実は日進駅に進入する後追いの写真。腕木式信号機が懐かしい。
電化される前はこんな感じだったんだよね。
ふらりとバイクに乗ってきたような気がする。
梅雨明けの今に想いを馳せて・・・。
マミヤC220
1981年8月 川越線。
越生、明覚、小川町、竹沢、折原・・・想い出すだけでも素敵な景色の連続だった。
採石地から溜池のカーブ、小さなサミットからのストレート・・。今ではみんな撮れなくなってしまった撮影地・・・。
そういえば当時住んでいた大宮から越生の黒山三滝や金勝山の小川少年自然の家に自転車漕いでいったのは中学生の頃。サイクリングと称して通学用チャリの保安部品を外し軽量化を図り挑んだことが今となっては懐かしい。
鉄道写真を撮るようになっても目指したのはやっぱり彼の地域や秩父方面だったりする。結局自分の方位磁針はそっちにしか向かっていなかったようで今もって苦笑する。
秩父困民党甲大隊長新井周三郎の出身地は西ノ入だったりするし・・。
自分の中では秩父に向かう奥武蔵の地は今も昔も懐かしい風景そのままです。
1981年2月 ペンタ6×7 200mm
1982年9月 ペンタ6×7 55mm
いずれも八高線。
秋は空からやってくる・・・。
夏の終わりにこんな雲が出始めるとそろそろ秋の気配。
あけぼのが上野を目指して上ってゆく。
こうしてみると6×6の構図も良いよねぇ・・。
マミヤC220 65mm
1981年9月 東北本線。
通っていた熊谷の高校には県北はゆうに及ばず秩父からも結構な数の生徒が通っていた。ある時、長瀞から来ていた同じクラスの彼から金尾峠越えの道を教わった。バイク乗りの彼は秩父はもちろん寄居に抜ける間道もよく知っていた。
自分は言うと・・「秩父鉄道が見えるじゃん」、てなわけでその後何度となく当時住んでいた大宮からバイクで通うことになったわけです。当時の道は一車線の狭い道で通る車もほとんどなく道路脇に三脚を立てのんびりと撮影が出来ました。もちろんその頃はデキを撮る人はほとんどいなく何時行っても自分だけ・・そんな感じでした。この道路、今は国道140号の長瀞方面への迂回路となり道幅も2車線、トラックや乗用車がひっきりなしに通る幹線道路です。
そしてこの構図ですが現在は手前の木々が伸びまったく見えません。40年も経てば当たり前ですよね。そういえばこのあたり今は近くの金尾山つつじ園からの俯瞰で有名のようですが自分はというとやはり荒川を入れたこの頃の雰囲気がお気に入りでした。
マミヤC220 105mm
1980年11月(たしか11月14は県民の日でお休みでした) 秩父鉄道。
客車に雪を纏い北国の想い出を連れてくる。
からっ風の関東平野の空はゴハチの青と競い合う。
さぁラストスパート上野まではもう少し。
マミヤユニバーサルプレス6×9 100ミリ
1981年12月 東北本線。
東北本線にも115系が当たり前だったころ。
夏の終わり秋の気配が忍び寄る。いつもの列車はいつものように駆けてゆく。
普段から自分のテリトリーを大事にして色々な構図で楽しむのも面白いんだけどねぇ。此処東大宮~蓮田は今でも人気の撮影地だが多くの鉄の方々はお立ち台のお決まり構図でしか撮らない輩がほとんどのような気がする。もったいないねぇ・・・。まぁ所詮趣味の問題だと言われればそれまでだが。
撮っておいてよかった115系。
ペンタ6×7 55mm
1982年8月 東北本線。
ループを抜けて駆け下る。
カメラはペンタ6×7の300mm。ガタガタ道の林道を上がり途中のカーブの法面に上がっての写真。前日は岩原あたりをウロウロし帰りしなに寄った一枚。今は木々が伸びて見えないであろうこの場所。昔は見えたんだけどね~っていう場所・・当たり前か。そりゃ時間が経てばもう撮れなくなってしまったなんて場所はざらだよね。
いわゆるお立ち台と言われる場所ですら時間の経過とともに過去のものになる訳で・・。撮らせていただいていることを忘れ地元の人とトラブルになる輩が出る昨今。そうなると興醒めして撮影に行きたくなくなるのは今も昔も同じで・・。どうしてこんな風になってしまったんだか。
誰もいない山道の途上でお茶を飲みながらゆっくりと煙草をふかし独り景色を眺める・・。構図を決めそしてダイヤグラムと時計を覗く。ピントを再度確認そして露出計のデータももう一度・・さぁループを出てきたぞ・・よしっ!。
楽しいんだけどね独りでいても・・・。わかるかなぁ~わかんねぇだろうな・・・。
1982年 ちょうど38年前の今日6月6日。 上越線。
キハの赤が銅色になる頃。冬の短い陽はもうすぐ暮れようとしている。
列車を待つあいだ手袋をした片方の手を取り煙草に火をつける。
段々と畝の轍と落葉松の影が交差する。
ペンタ6×7105mm。
1985年1月 広尾線。
ウイスタ4×5VXに6×9のバックホルダーを取り付けた一枚。レンズはスーパーアンギュロンの90mm。1985年ごろになるかと思うが、段々と鉄道写真から離れ4×5やブローニによる風景写真に傾倒していったのは・・・。
その頃勤めていたスタジオの先生の暗箱を借りて初めて4×5を屋外に持ち出した。その後すぐに自分のカメラが欲しくなりテクニカルタイプの4×5一式を買いそろえた。レンズは先生曰く持っていないレンズを買えとのことでフジノンSWD75mm、ジンマー150mm、フジノンT400mmとし他にカットホルダー、6×9バックホルダー、広角用袋蛇腹、ルーペ、乾布、水準器、プロンターのレリーズと当時の月給の数倍を覚悟して購入した。実際の撮影では先生が持っていた90、120、180、210、270mmのレンズを拝借して北海道を始めとしてお気に入りの場所へ撮影に出かけた。さらにはその後8×10にまで手を出すのだから、フィルム代現像代撮影費用と年中火の車だった。
この拙いブログでは風景写真を扱うことがあまり有りません。何故なら4×5のフィルムをスキャンするの不精しているわけでたまに6×9ホルダーのブローニがぽろっと出てきたときにスキャンする程度な訳です。
因みにこの写真ライズとティルトをしています。つまらない写真ですがそういったアオリを利かせて撮るのが楽しかった頃の駄作です。
今度4×5を見返してみますか・・・。
1985年5月 水上町谷川地内。
ブローニのスキャンをしていたらこんなの出てきました。
仲間内での撮影行だったようで撮影後の駅前での集合写真から懐かしい面々が想い出されます。S水と兄貴や渋川の先生も・・・。
当時のお召し列車は鉄にとって特別なものでイベント事としては最上級なものだったように思います。どうやって会社や学校を休むかは人それぞれで親類縁者の忌引きで休む人や病気等々色々だったと思います。事前に申請する人もいれば自分のように当日朝になって会社に電話するほうが良い場合もありいずれにせよみんな眼を輝かせて撮影地に向かったものでした。
お召しが走ると景色が開ける・・・足回りの草が無くなる・・・。今では考えられない時代でした。警備の警官が居てある意味監視されている状態ながら常識の範囲内なら今のように大騒ぎになるような事もなく穏やかに撮影できたのはあの時代だったからということだけではないような気がします。
因みにこれC220での撮影。
1982年5月 東北本線。