川上村の男山の麓。

後ろに見える岩峰は男山。ここからは見えないが更に奥には天狗山そして馬越峠へと続く藪山の尾根。昔バイクでもツーリングした懐かしい峠。ある時は峠に車を置き天狗山に行く尾根で落ち葉の道に冬の日差しが素敵だったことが思い出される。

 

秩父困民党最後の交戦地が小海の馬流。彼らは海の口から広瀬、川上そして野辺山ヶ原に向かい離散逃散し霧のように消える。たぶんこのあたりの山々にも足跡を残し駆けていったのではないのだろうか。自由民権の旗のもと約十日間に及び時の政府に対抗し武力行使を行いさらに秩父から信州へ向かう。勢力拡大の考えが崩れ逃げてゆかざるおえなかった彼らはその時どんな気持ちで山々を歩いたのか・・・。

あるものはその後潜伏先の甲府やさらに東京で逮捕される。名もない農民たちは山中谷をさまよい秩父へ戻ったものもあったという。また名を隠し遠く北海道の地へ渡り死の間際に家族に打ち明け当時の新聞に記事が載った者もいた。

一斉蜂起約一万人、裁判にかけられたもの三千余人。

終わり無き旅に出た人々・・・。

 

今は国道や高速道路で見ると一見遠いように思える川上村と秩父市、しかし足を使っての峠越えであれば同じ運命共同体のような親戚とも呼べる山国の人々であった。信州転戦の指導者菊池貫平の故郷が北相木村であるのが当然ともいえるわけだ。

ここいら辺の景色がなんとなく落ち着いた気持ちになるのはそんな訳もあるような気がする。似ているんだよ秩父と・・・。

 

 

2018年1月2日      小海線   信濃川上~佐久広瀬。

 

 

 

野辺山ヶ原。

いつも思うのだが開拓地は何処も力強い。そしてどことなく寂しい。

 

かつて原生林だったところを人の手で切り開いたところは一見殺風景だが大地からひしひしと人々の営みが感じる。

大きな切り株を掘り起こすのは大変だっただろう、水を引く水路作りはどんなだったのだろう。寒冷地が故冷夏の年の生活は困難を極めたのでは・・・。

戦前戦後の開拓は北海道の屯田開発の頃とさして変わらない機械化とは程遠い人力によるもでさらに昭和30年前後の国や県の政策よるいわゆる人間の放牧ともいえる集団集約農場の政策は農協資本における機械化の裏にある借金経営で開拓民を縛り上げてきたのではなかろうか。一極集中は都市部に限ったことではなくて農村にも当てはまる。一部の成功者による大規模化とやがて離農者になるであろう貧困農場の構図。大規模機械化が出来てもその後起こる後継者問題・・・。こんなことを言うとマイナスばかりに思えるかもしれないが北海道の開拓地に付きまとうトライアル&エラーを見てきた自分にはどうも同じに見えてしまうのだ。

昭和40年代に始まった清里や野辺山の観光ブームで駅前や国道沿いの民宿ペンション土産物屋の乱立が始まる。50年代前半に清里へよく行ったのだかあの頃がピークだったようで今は昔ほどの賑わいは無いように思う。そして今はさらに外部資本によるトライアル&エラー・・・。

 

野辺山や清里の歴史を知りたいと思った。もっと地元の人に話を聞きたくなった。

なぜかそんな思いが湧く開拓地・・・。

 

 

 

2018年1月2日   小海線   信濃川上~野辺山。