季節が過ぎる。

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気が付くと、桜の花の季節。

東京と新潟では分水嶺を境に、桜がグラフの
ピークを移動させる。

秩父の冬枯れも過ぎたようだ。
桜が散ると、一斉に若葉が多い尽くす。

冬が過ぎていく。
何かやり残したことがあるかのように、
寂しいけど冬の日差しを思い出す。

1979年12月16日の秩父。今は無き機関車

土合。

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昭和6年開通の上越線『清水随道』を抜け土合駅に
滑り込む『とき』。

高校生の頃、渋川の高校の先生と知り合い、休みのたびに
誘いを受け電車の写真を撮りに行った。
先生の家に前の晩にお邪魔して、翌日、群馬はもとより、
遠く新潟・長野まで車でしか行けない撮影地へも出かける
ことが出来た。

ビールがうまいと感じたのも、その頃だった。
いろんな意味でおおらかな時代だったように思う。

秋晴れのその日のことを昨日のように思い出す。
1979年10月14日撮影。

駅。

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旅先のご馳走。
いや、どこぞに勇気を持って駅の外へ出かけることが出来ないだけのこと。

駅そばは、ファーストフードだったりする。
もちろん蕎麦そのものや、出汁は違っているけれど。

カウンターの中は、どういう訳か大概、おばさんのことが多い。

向こうはどんな客かと思っていることもあるだろう。
こっちは、どんな境遇であるのかと思ったりする。

富山駅。
「立山」の文字が真っ直ぐ見える。

ホイッスル。

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暫らく前まで、山間のこの駅には、峠のシェルパの汽笛が響いていた。

今は鉄道公園の、動態保存であるEF63のホイッスルが往時を偲ばせるがごとく、駅裏の「おぎのや」で蕎麦を啜る自分に、落ち着きの無さを与えている。

駅前のアプト時代のラックレールの傍らで・・・。ズズッズ・ズッー。

石打駅。

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初めて石打のバルブ撮影をしたのは中学2年の夏休み。
その後幾度と無く訪れた思い出深い駅。

ダイヤ改正や合理化、機関車の性能向上で、あの頃のような写真は取れなくなってしまったが
それでも何か事あるごとに駅に寄ってしまう。

この写真は高校2年の時、文化祭の代休で来たときのものだ。
1979年9月24日と記録がある。

列車進入を知らせる独特の警報音が今でも耳に残っている。

日中線。

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喜多方から熱塩までの客車の中、車内検札で補充券に鋏を入れてくれたのは若い車掌さんだった。

熱塩駅は、記念館となり残っていた。

傍らに客車が保存されていた。
ペンキを塗りなおしたばかりなのか、揮発性の塗料の匂いが
まだ残っているようだった。

夏草が生い茂る夏の日の夕暮れ。
蒸気機関車のブームが去った駅には、
虫の声と、時々そばを通る車の音だけがしていた。

茶色い客車から窓を開けた、昼間の草いきれと夏の夕方の匂いが混ざり合っていた。

会津の先生。

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秩父困民党のことを知ったのは今から25年ほど前のこと。

大河ドラマで、戊辰戦争の生き残りとされ登場する”会津の先生”。
実在したかというと名前も明らかではないが、確かに会津から来た人物がいたそうだ。

自由民権の旗印の下、関東一斉蜂起を夢見て散っていった人々。
新式村田銃の洗礼を受け遠く信州の地で果て、
その後遠く北海道の地まで下った人もいたという。

会津鶴ヶ城の容保公の肖像写真を見るたび想う。
果たして、望みは何であったのかと。
時代こそ過ぎたが、おそらく、秩父の人々とどこか同じ思いではなかったのかと。

その頃、会津を旅したとき、ふと立ち寄った田舎の雑貨屋で、米や味噌を頂き野宿し続けたことを思い出した。
素朴な中に強さを秘めた人だったように記憶する。

旅の途中、会津川口駅で汽車を降りたのは遠い昔。